ポジション重複の悲劇が捕手に多いなかにあって、60年以上経った今でも“もう一人の4番サード”として語り継がれているのが、58年に長嶋茂雄と同期で巨人入りした難波昭二郎だ。

 関大時代、“東の長嶋、西の難波”と並び称された大型三塁手は、当初中日入りが内定していたが、長嶋が南海入りするとみられていたことから、巨人も獲得に動き、口説き落とした。

 ところが、その後長嶋も巨人入りし、ポジションが重なる2人が同じチームで顔を揃えることになった。

 巨人側は難波に「中日に行ってもいい」と伝えたが、「二股かけて契約金を吊り上げているように思われるのは嫌だったし、三塁じゃなきゃというこだわりもなかったから」とそのまま巨人入りを決めた。

 入団後の難波は、一塁、二塁、外野にも挑戦したが、59年の66試合出場をキャリアハイに西鉄移籍後も含めて、わずか5年でユニホームを脱いだ。

 現役引退後、ワーナーパイオニアの取締役になった難波氏は「僕にはハングリーなところがなかったし、プロでやっていくには繊細過ぎたかもしれませんね」と振り返り、「でも、偶然同じ時期に長嶋君がいたことで、今でも僕がライバルと言われ、比べられるのは素敵なことじゃないかと思っています」と語っていた。(文・久保田龍雄)

●プロフィール
久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。

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久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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