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 2007年、40年連れ添った妻をがんで亡くした垣添忠生・日本対がん協会会長。がんの研究者であり、医師である夫が、がんで妻を亡くす苦しみは壮絶なものだった。苦しみを乗り越え、再生につなぐ原動力は、「妻が喜ぶように、しっかり生きないと」との思い。奮闘の15年の日々とは。

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 この15年、妻のことを考えなかった日はありません。今も妻の写真を手帳に挟んで持ち歩いています。大事な交渉を控えたときや勝負どきには、妻の写真に向かって「よし、行ってくるぞ」と声をかけて、気持ちを奮い立たせます。

 妻と結婚して40年間、子どもがいない私たちは、常に二人で行動し、いろんなことを楽しんできました。私が研究者として、また医師として、仕事に打ち込めるように支えてくれたのも妻でした。

 妻が亡くなったのは、私が国立がんセンターの総長を定年退職して名誉総長となり、やっと少し時間のゆとりができたとき。これから国内外をあちこち旅したり、二人で好きな絵を描いていこうと思っていた矢先のことです。私は医師として、数多くの人の死に立ち会ってきましたが、妻を亡くした喪失感は、これまでに経験したことのない、想像をはるかに超えたものでした。

 妻が亡くなって1年間は、うつ状態にありました。仕事には行っていましたが、毎晩一人で相当な量の酒を飲み、肝臓を壊さなかったのが不思議なぐらい。静寂に包まれた家の中に一人でじっと座っていると、背中からひしひしと寂しさが忍び寄ってきて、身をよじるほど苦しかった。もし私が先に死んで妻が残されていたら、と思うとゾッとします。あの苦しみは、妻には決して味わってほしくない。

 最初の3カ月の壮絶な苦しみをやり過ごし、半年ほど経ったころから、「妻が一番喜ぶのは、私が自立してしっかり生きることだ。どうすれば一人できちんと生きていけるだろうか」と考えるようになりました。時の流れは人の心を癒やしてくれるものです。最初の3カ月、十分に悲しみ抜いたのも大事なことだったのかもしれないとも思う。食生活、運動、健康管理と一つずつ改善していく中で、立ち直るスピードがぐんと加速したように思います。妻と楽しんでいたカヌーと登山も再開し、まったく新しいことにも挑戦しようと居合も始めました。

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