では日本ではどうか。通算400本塁打以上の「超スラッガー」ではないものの「強打者」といわれる選手たちをみてみよう。「バントをしない2番打者」でデビューした小笠原道大(日本ハムほか)は、日本ハム時代の10年間で0個だったが、巨人時代は7年間で2008年に1個、12年に1個。いずれの年も原辰徳監督で、リーグ優勝をしている。ほかには嶋重宣(広島ほか)が首位打者になった04年は1犠打、川端慎吾(ヤクルト)が首位打者になった15年は2犠打、坂本勇人(巨人)が40本塁打を放った19年は3犠打。ただ、21年に27本塁打、75打点だったマーティン(ロッテ)は0犠打である(2番の強打者5人中、坂本以外は左打者)。

「通算200本塁打以上で通算200犠打以上」の打者は、高木守道(中日)、石毛宏典(西武ほか)、谷繁元信(中日ほか)の3人だ。長打力と小技を兼備している。過去、「打点王と犠打王」の両方を経験している変わり種に小谷野栄一(日本ハムほか)がいる。10年に109打点でタイトルを獲得しているが、12年の40犠打はリーグ最多だった。走者が得点圏にいるケースでは勝負強さを発揮し、走者一塁では得点圏に走者を送る献身性をみせた。00年代前半の宮本慎也(ヤクルト)のように「走者が出れば送りバント」「シーズン50犠打」のような選手はいないが、日本球界の2番打者は相変わらず短距離打者が任せられる傾向は強いだろう。

 巨人の原監督は、前出の中田や小笠原にバントをさせたように、19年には、2番に配置した坂本のほか、ビヤヌエバ、ゲレーロにも送りバントを指示した。1回に得点できなかった試合は43勝46敗で借金3だったが、1回に得点できた試合は34勝18敗で貯金16だった。確実に先制点を挙げたことが、5年ぶりのV 奪回につながったのだろう。20年には丸佳浩が3年ぶりの犠打を記録し、V2を果たしている。

 21年5月に坂本にバントを命じたとき、原監督は「不思議なことではない」とコメントした。22年5月20日の阪神戦でも6回表0対0の無死二塁で、8本塁打のウォーカーが2度送りバントを試みた(結局、ヒッティングに転じて内野安打)。3番・吉川尚輝が送った後、岡本和真が先制2点打。今後も要所で主力打者にバント指令をする原采配が見られるだろう。原監督は21年までに通算1152勝(リーグ優勝9度)を達成。あのV9川上哲治監督の通算1066勝を上回っている。(新條雅紀)

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