石原氏が都知事の地位にあった2000年代を通して、この国の市民社会はすっかり分断された。構造的には階層間格差の拡大を不可避とする新自由主義の横溢、およびSNSのとめどない普及が主因だが、デマゴーグとしての石原氏の影響力も、また計り知れなかった。
なにしろ首都行政のトップが、社会的弱者を日常的に嘲笑し続けた。それが何らの咎も受けずにいたのだから。
「黒いシール事件」をご存じだろうか。1983年の衆院選を控えた前年11月。東京2区から自民党公認の出馬を表明した新井将敬氏(故人)のポスターの7、8割方に、黒地に白抜きで「(昭和)四十一年北朝鮮より帰化」と記された大判(縦16センチ、横7センチ)シールが貼られた。彼は確かに在日2世で、日本国籍を取得もしていたが、祖父母は韓国・慶尚北道の出身だった。
有権者の差別意識を煽るとともに、“北のスパイ”の連想を掻き立てようとしたらしい。実行部隊の中心は、選挙区も自民党公認も同じ石原氏が大手ゼネコンの鹿島建設から預かっていた公設第一秘書・K(当時33)だった。2人の出会いをよく知る人物に、私は事実関係を確認している。
露見しても石原氏は、「秘書が勝手に」と言い募る一方、有権者の“知る権利”を主張。選挙区内の有力者らに新井氏の除籍原本が送り付けられる騒ぎもあった。一応の謝罪はなされ、ウヤムヤになるやKは鹿島に復職し、やがて営業統括部長や専務執行役員などを歴任することになる。
晩年の、豊洲市場移転問題で都議会百条委員会の証人喚問を受けた際の石原氏を想起されたい。脳梗塞の後遺症で「すべての字を忘れた」と空とぼけた彼は、その後も何冊も本を出している。
石原氏の標的にされた人々は数限りない。口惜しさのあまり涙ぐむ人に私は嫌と言うほど会った。
私自身も泣かされた当事者だ。かつて東京23区の大半が房総や伊豆の海岸で運営していた「健康学園」が、石原都政の下でことごとく潰された。