6月17日、最高裁が、東京電力福島第一原発事故で国の責任を否定する判決を出した。
――当時の津波対策は防潮堤の設置が基本だった。国が対策を命じれば、東電は防潮堤を作ることになっただろう。だが、予想される津波に対する防潮堤を作っていても、実際の津波はそれよりも大きかったので、結局被害を免れなかった可能性が高い。だから国に責任はない――という理由だ。 だが、普通の感覚なら、
―そもそも、原発は尋常ではないリスクを伴う。事故が起きたら多くの人の命や健康に被害が生じ、故郷を失う人も大量に生まれる。それなのに原発を作ることを認めたこと自体、国に責任がある。百歩譲って作るのは認めても、それだけ危ないものを作るからには、国は、ありとあらゆる事態を想定し、東電に万全の措置を採らせる義務があるはずだ。それができなかったのだから、国には当然責任がある―と考えるのではないか。
政府は、これをただの素人考えだと言うかもしれないが、これに非常に近い考えを述べた判事がいる。検察官出身の三浦守氏だ。彼の反対意見は、
―国の規制権限は原発事故が万が一にも起こらないようにするために行使されるべきだ。国が津波への対応を命じていれば、東電は防潮堤の建設が完成するまでの間、非常用電源設備の機能を維持するために水密化などの措置を講じていただろう。つまり、国や東電が真摯に検討し対応していれば事故を回避できた可能性が高い。経済産業大臣がそのような命令をしなかったのは、違法であり賠償責任は免れない―というものだ。
これこそ、常識的な判断ではないか。
しかし、他の最高裁の判事は細かい技術論をこねくり回し、国の責任を否定した。判決を読めば読むほど、無理矢理責任否定の結論に持ち込もうという意図が見えてくる。
特に、予見可能性の議論を避けたことは大きな問題だ。予見可能性について詳細な議論を行えば、どんなに大きな地震や津波でも、そう簡単に想定外として片づけることは出来なかったはず。どこまで予見すべきかが大きな争点となり、今回の判決のみならず、今後の原発の安全審査の前提に大きな影響を与えることになったと思われる。少なくとも、原発再稼働のハードルは今よりもはるかに上がることになったであろう。判決はそれを避けたのか?