ちなみに、長いタイトルの後半部分、「この大いなる歓喜の為に わたしは尽す」は、「自分自身の状態をタイトルとして表したんですけど、これはメッセージでもあるんです」。
そのメッセージとは何か? 熊谷さんは「なんか偉そうで申しわけないんですけれど」と前置きして、こう答えた。
「みんな自分の好きなようにやれば、ということ。いろいろ大変なのはわかるんだけれど、一回きりの人生だし、自分はいま、この写真集をつくりたいからつくる。まあ、みんながそういう感じになったら、もっと生きやすいというか、そうなればいいな」
そして、「作品を勝手に感じてください、というのが、本音ではあるんです。それはずっと思っていて、もう、みんな好き勝手に見て、感じてほしい。誰か目利きの人がいいって言ったからではなく、自分を信じてくださいって、思うんです」と続けた。
■売れるかどうかは考えない
熊谷さんは、写真以外のさまざまなアートからいろいろなことを学んできたという。
例えば、梶井基次郎の短編小説『檸檬(れもん)』を引き、「そこにレモンを置いただけじゃないですか。あんな感じ。それが面白いというか」。
だからと言って、オマージュとしての作品づくりや文学的な方向に固執するつもりはなく、「タイトルとか、音楽的な要素をいっぱい入れているものもある」。
「いろいろなものから引っ張ってくるんですけれど、それを全部、自分の中に一回入れて、混ざり合って、それがいろいろなかたちで自分の写真の中に現れる。そういう感じが好きなんです」
この10年、たくさんの写真集を出してきた。しかし、それが「売れるかどうかは、もう考えない」。
「売れるような仕掛けとかも、もうやらない。『経済の世界』と『制作の世界』を切り離してしまう。長い年月をかけて売ればいい、と。そうなってくると、『つくりたいからつくる』、ということができるんです。それはすごく大きいですね」
ただ、そうは言うものの、もちろん売れたほうがいいに決まっている。要するに表現のために腹をくくったのだ。
■「歓び」と「欲望」
「『目の歓びの為に、指の歓びの為に』というのは、『目の欲望の為に、指の欲望の為に』と、『欲望』という言葉に置き換えられるんです」
しかし、「欲望」という言葉にはあまりにもいろいろな意味が付随するので、ちょっと違うな、と思い、「歓び」にしたという。
けれど、私は「欲望」がふさわしいと感じた。そのほうが熊谷さんのヒリヒリとするような写真への探究心が伝わってくる。
(文=アサヒカメラ・米倉昭仁)
【MEMO】熊谷聖司写真展「眼の歓びの為に 指の悦びの為に この大いなる歓喜の為に わたしは尽す」
ギャラリーソラリス 5月25日~6月6日