『老婦人マリアンヌ鈴木の部屋』
朝日新聞出版より発売中
私の21世紀は、病いと老いと死に要約される。
最初に倒れたのは父親である。85歳で、腸の悪性リンパ腫だった。マリグナント・リンフォマ、と今でも英語が口をついて出るのは、日本語のできない父のために、辞書を片手に病状を説明していた名残だ。
手術は成功したが、当時は高齢者の放射線治療を受け入れる病院は限られていた。仕事がはけると、横浜から板橋まで通ったものだ。父は不思議な強運の人で、放射線の唯一の副作用が、ハイになることだった。看護師の女性たちに、誰彼なしに「ビューティフル」と声をかけ、手にキスをしていた。
父はその翌年も腸閉塞で、危うく一命を取り留めた。
平穏に二年が過ぎて、正月に凶の御籤(おみくじ)を引いた。父かと覚悟していたら、当時の恋人に食道がんが発見された。それからの一年二ヵ月は二人三脚で、晴れた六月の朝、彼は帰らぬ人となった。呆然としている時間は私には与えられず、秋には父が再び倒れた。90歳で酒を過ごして心不全とは、わが父ながらアッパレである。
それからの五年、父は入退院を繰り返し、途中から老人ホームのお世話になった。病院から、ホームから、仕事先に電話がかかってくる。ほとんど寝たきりの父は、元気な自分がなぜベッドに寝かされているのかと、英語で爆発する。度重なると、私のほうが爆発する。その繰り返しだった。
父にかまけているうちに、母の体調がどんどん悪化していた。腰椎すべり症で腰をふたつに折り、気管支喘息は肺気腫へと移行しつつあった。それでも煙草をやめられないのを、母は画家という自分の職業のせいにしていた。
2010年に父を送り、二年後に私は大腸がんを体験する。自分の入院の間、家の中でも杖が手放せない母を一人残しておくわけにはいかない。病院に頼み込んで、母もついでに入院させてもらった。一部屋置いた隣が母の病室で、私は点滴棒を手に、通っては一緒に食事をし、親子喧嘩をしたものだ。その母も、2015年に亡くなった。