夏草の生い茂る専用軌道の上り坂を力走する38系統日本橋行きの都電。都電編入時は39系統錦糸堀~洲崎として運転され、戦後になって38系統錦糸堀車庫前~日本橋に改編された。南砂町三丁目~南砂町一丁目(撮影/諸河久:1963年7月22日)
夏草の生い茂る専用軌道の上り坂を力走する38系統日本橋行きの都電。都電編入時は39系統錦糸堀~洲崎として運転され、戦後になって38系統錦糸堀車庫前~日本橋に改編された。南砂町三丁目~南砂町一丁目(撮影/諸河久:1963年7月22日)

 国鉄越中島貨物線の下をくぐって、日本橋へ向かう38系統の都電が次のカットだ。都電の接近に草蒸した軌道からはバッタやトンボが飛び去る暑かった夏の憧憬だ。

 この場所が都電ファン垂涎の好撮影地で、運よく背景に国鉄貨物列車が共演してくれることを願って都電の通過を待っていた。右手一帯は汽車製造会社東京製作所の工場敷地で、ここで竣工した鉄道車両は越中島貨物線を介して甲種回送されていた。

 ちなみに、国鉄越中島貨物線と汽車製造東京製作所、城東電軌砂町線の沿革を時系列に列記すると、

◎1921年 汽車製造会社東京支店錦糸町工場が移転予定の南砂町に敷地を取得
◎1927年 城東電軌が砂町線の稲荷前~東陽公園前を延伸
◎1928年 汽車製造会社南砂町敷地の埋め立て工事が竣工
◎1929年 国鉄総武本線の支線として越中島貨物線の亀戸~小名木川貨物駅が開通
◎1931年 汽車製造会社東京支店錦糸町工場が南砂町に移転。後年、汽車製造会社東京製作所となり、1930年頃には越中島貨物線への引込線が敷設されている

 となり、城東電軌砂町線延伸時には、すでに汽車製造会社は新工場の用地を取得していた。砂町線は矩形になった同社工場用地に沿って、鍵型の軌道を敷設せざるを得なかった経緯がよく分かる。

軌道跡は緑道公園の遊歩道となり、画面左奥にJR越中島線のガードが覗いている。画面右端に都電の車輪などを展示した江東区のモニュメントが見える。(撮影/諸河久:2021年2月5日)
軌道跡は緑道公園の遊歩道となり、画面左奥にJR越中島線のガードが覗いている。画面右端に都電の車輪などを展示した江東区のモニュメントが見える。(撮影/諸河久:2021年2月5日)

 この地点の現況写真が次のカットだ。南砂緑道公園の歩道となった軌道敷の先に、JR東日本越中島線の跨道橋を垣間見ることができる。この跨道橋は「城東電軌こ線ガード」と呼ばれており、都電となっていないところが面白い。画面右端には1979年に設置された江東区のモニュメントがあり、城東電車と都電の故事来歴が記され、都電の軌道と車輪が展示されている。

越中島貨物線側から写した「南砂町の専用軌道」と軌道の左側に続く汽車製造会社東京製作所の広大な社用地。カメラを構えた眼前を38系統門前仲町行きの都電が走り去った。ちなみに、昨今は門前仲町を「もんなか」と呼ぶが、往時は「なかちょう」と呼んでいた。南砂町三丁目~南砂町一丁目(撮影/諸河久:1963年7月22日)
越中島貨物線側から写した「南砂町の専用軌道」と軌道の左側に続く汽車製造会社東京製作所の広大な社用地。カメラを構えた眼前を38系統門前仲町行きの都電が走り去った。ちなみに、昨今は門前仲町を「もんなか」と呼ぶが、往時は「なかちょう」と呼んでいた。南砂町三丁目~南砂町一丁目(撮影/諸河久:1963年7月22日)

■広大な敷地を誇った汽車製造会社東京製作所
 
 次の写真は越中島貨物線の築堤下から南砂町一丁目方向に走り去る都電を撮った一コマ。軌道は画面奥で右にカーブし、その先が南砂町一丁目停留所だった。南砂町一丁目停留所を出ると、汽車製造会社の敷地に沿って左に急カーブを切り、専用軌道の終端である南砂町四丁目に向かっている。

 画面左側一帯が汽車製造会社東京製作所の用地で、工場面積5200平方メートル、付帯する事務所・倉庫面積は6800平方メートル、総面積は21040平方メートルに及ぶ広大な敷地を擁していた。

 東京製作所では主に客車、貨車、電車、自動車などを製造し、戦後の一時期には東京都電の3000型や6000型も受注している。汽車製造会社が川崎重工業に吸収合併された1972年に東京製作所は閉鎖された。現在、旧工場敷地は東京都住宅公社南砂住宅に転用され、高層団地が林立している。

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都電の轍音が消えた日