京都市営地下鉄東西線の開業で廃止された京津線の併用軌道を走る準急浜大津行き。横断歩道橋から東山を背景に、木造の家並と京津線をフレーミングする。画面右端に「真っ赤なポルシェ」がタイミングよく写り込んだ。東山三条~蹴上(撮影/諸河久:1997年9月20日)
京都市営地下鉄東西線の開業で廃止された京津線の併用軌道を走る準急浜大津行き。横断歩道橋から東山を背景に、木造の家並と京津線をフレーミングする。画面右端に「真っ赤なポルシェ」がタイミングよく写り込んだ。東山三条~蹴上(撮影/諸河久:1997年9月20日)

 写真は三条通りに沿った京都の旧い街並みと去り行く京津線を狙った一コマ。京津三条~蹴上の路面区間廃止まで一月を切ったこの日が、筆者にとって告別の訪問となった。京津線の車両は自社の錦織(にしこおり)工場で製造した最新鋭700型で、現在は石山・坂本線で稼働している。

 当時トレンドだったAPS(アドバンスド・フォト・システム)カラーリバーサルフィルム(フジクローム100ix)を装填したキヤノンEOS IX Eによる撮影だ。ロケ日は秋晴れに恵まれ、「五山送り火」で著名な東山を背景に入れ、浜大津に走り去る路面電車をバッチリ描写することができた。

■ポール集電時代の京津線と戦前のレジェンド「びわこ号」

東山三条の交差点を行き交うトロリーポール集電時代の80型と50型。京津線はこの交差点で京都市電東山線と平面交差していた。三条~東山三条(撮影/諸河久:1964年8月3日)
東山三条の交差点を行き交うトロリーポール集電時代の80型と50型。京津線はこの交差点で京都市電東山線と平面交差していた。三条~東山三条(撮影/諸河久:1964年8月3日)

 写真は京都市電東山線と平面交差する東山三条交差点で行き交う京津線の路面電車。画面手前の東山三条停留所では、琵琶湖の湖水浴に向かう学童達が浜大津行きの到着を待っていた。真っ黒に日焼けした童女の表情から、耐え難いような京都の蒸し暑さが伺える一コマだ。

 京津線は1912年に京津電気軌道によって、三条大橋(後年三条に改称)~札ノ辻(後年廃止)10800mが開業した。軌間は1435mm、電車線電圧は600Vだった。1925年に旧京阪電鉄に合併され、京阪電鉄京津線となった。同時期に大津市内の終端駅を浜大津に延伸して、三条大橋~浜大津11200mが全通している。
 

60型流線形連接車「びわこ号」はトロリーポールとパンタグラフの双方を装備。晩年は京阪本線特急色に彩られていた。 錦織車庫(撮影/諸河久:1968年3月31日)
60型流線形連接車「びわこ号」はトロリーポールとパンタグラフの双方を装備。晩年は京阪本線特急色に彩られていた。 錦織車庫(撮影/諸河久:1968年3月31日)

 最後のカットが日本初の流線形連接車体構造を採用した60型。1934年の登場時には、京阪本線の天満橋から京津線浜大津を72分で結ぶ直通特急「びわこ号」として活躍。流線形ブームに乗った独特の風貌をしており、日本車輛で61~63の3両が製造された。京阪本線用のパンタグラフと京津線用のトロリーポール、ホーム用の両端扉と停留所用の中間扉を装備するなど、大阪~大津の直通運転に対応していた。

 直通運転を廃止された晩年は京津線の各停仕業に使われ、1967年から1970年にかけて退役した。解体を免れた63が登場時の姿に復元され、戦前のレジェンドとして寝屋川車庫で保存されている。

■撮影:1981年4月8日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの軽便鉄道」(イカロス出版)など。2020年5月に「京阪電車の記録」をフォト・パブリッシングから上梓した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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