『だれかの記憶に生きていく』
朝日新聞出版より発売中
亡くなる直前、ひとは走馬灯を見ると言います。しかし、それがほんとうのことなのかどうかは、ぼくにはわかりません。ただ、納棺や葬儀といった別れの時間は、遺されたひとにとっての走馬灯と言えるのではないか――ぼくはそう感じています。
忘れていたような思い出が引き出される。彼/彼女のいろいろな表情が浮かぶ。自分は見たことのなかった顔を知る。何十年分という故人さまの思い出が、家族や学友、仕事仲間のあいだでよみがえるのです。
また、納棺師として故人さまの最後の時間に寄り添うぼくも、たしかに走馬灯を見ているような思いに駆られることがあります。ぼくの場合、ご遺族やご友人から故人さまについての思い出をたくさんうかがうからでしょう。
打ち込んできた仕事。成してきたこと。結婚式の笑顔。家族旅行の風景。家を建てたとき、車を買ったとき。赤ちゃんを抱く姿。子どもと両親と食卓を囲む様子。どんな性格で、どんな口癖があって、どんな友だちがいて……。
さまざまなエピソード、故人さまのキャラクター、いいところや困ったところ(それも愛情を込めて、です)を耳にするうちに、そのひとが目の前に立ち現れてきます。
故人さまの人生が描き出される「おくる時間」は、まさに遺されたひとにとっての走馬灯。人生をうつし出す時間なのです。
そんな走馬灯に日々触れる中で、あるとき、「マネジメントの父」であるピーター・F・ドラッカーが13歳のときに恩師から投げかけられたという次の言葉を目にしました。
「自分はどう憶えられる人間になるか――いますぐに答えられる問いではないが、50歳になっても答えられなかったとしたら、人生をむだにしたことになる」
ぼくはこのことばを知ったとき、これまで出会ったさまざまな別れが胸によぎり、「まさにお別れの場の話だ」と思いました。「どんなひとだったと語られるか」と同じ意味の言葉だ、と。だってぼくは、これまで納棺や葬儀の現場で、たくさんの故人さまからそれぞれの人生を教えていただいてきたのですから。
「どう憶えられるか」、すなわち「どう語られるか」は、「人からどう評価されたいか」「どう見られたいか」といった意味ではありません。有名になれ、おおきなことを成し遂げろ、ということでもない。あくまで「生き方」の話です。