TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。日本赤軍の元最高幹部・重信房子とその娘メイについて。
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5月28日土曜早朝、五日市街道を西へ。元日本赤軍最高幹部の重信房子が刑期満了で出所する。
東京・昭島の東日本成人矯正医療センターに着いたのは6時半。他社報道陣も続々と到着、カメラは100台を超し、マイクを手にリポーターも準備に余念がない。
メディアから離れたところに支援者に囲まれた重信の娘メイがいて、「おはよう」と挨拶(あいさつ)しあう。
ノンフィクション『愛国とノーサイド』のインタビュー以来だが、FB(フェイスブック)で繋(つな)がっていることもあって久しぶりという感じはなかった。柔らかな笑顔は変わらない。ただ、母の出所の喜びと緊張がない交ぜな印象も受けた。
2000年、潜伏中の大阪で逮捕、収監された母は「自分には無国籍の娘がいる。何とか国籍を与えてほしい」と弁護士に懇願する。日本政府は娘メイの存在を知り、誘拐される可能性を案じて、彼女が来日するまでその存在は秘密にされた。
翌年、日本国籍を取得したメイは母に会うために小菅の拘置所に通い続けた。
二人が再会したのは春、桜の季節だった。
「私が桜の花がついた枝を持って行ったら、母はとても喜びました。桜は日本の花。普通なら枝を持って入るのは許されません。でも、拘置所の方が大丈夫ですよって」
「桜はすぐに散ってしまうところがいいの」と母は言った。「長く咲いていたら、桜ではないでしょ。綺麗(きれい)で儚(はかな)いから、ずっと見ていられる」
メイはグッチのショルダーバッグから、一枚の写真を取り出した。世界の報道機関に配信された、レバノン・ベッカー高原でマシンガンを抱く若き母だった。
同年、「日本人民は武装闘争を望んでいない」と重信は日本赤軍の解散を宣言している。それから二十余年。午前7時半過ぎにメイは弁護士と医療センターに入っていった。母を迎えるためだ。