志賀は服装に関していつもきちんとしている人だった。家の中にいてもだらしない格好はせず、身なりに気を使っていたという。
志賀の家にはいろんな人が訪れた。いつ、誰が来てもすぐに、きちんと対応できるようにしていたのだ。それは家のしきたりのようでもあった。
「私は初等科から大学まで学習院でした。白樺派は学習院出身者が多かったこともあると思いますが、特に初等科では言葉遣いなど、きちんとした人が多かったので、それが自然に身につきましたね。それは志賀家の教えに通じるものがありました」
「小説の神様」とも称される志賀は、家でも立派な立ち居振る舞いをしていたのだろうか。
「私にとってのおばあちゃま、祖父の奥さんに対しては、いつも『康子(さだこ)、康子』と何かにつけ、名前を呼んでいましたね。おばあちゃまがいないと何もできず、さらに少しせっかちなところがあったかもしれません」
康子おばあちゃまは何事も的確に素早く応え、“よくできた人”だった。それでいて、おしとやかで素敵な人だったという。
一方、志賀も康子には信頼と愛情を寄せていた。「週刊朝日」1952年3月16日号の「妻を語る」にこのような文章を寄せている。
「私は来世は信じないが、仮りに来世があつて、再び結婚せねばならぬような場合には、出ず入らずにやはり今の家内を貰うだろう」
志賀直哉にとって安らぎだった家は、訪れる人にとっても居心地がよかったようで、多くの来客があった。哲学者の谷川徹三、作家の里見トン(=弓へんに享)、網野菊などがよく家を訪れた。
そこでの話や接し方を見て、人間模様が垣間見えたと裕さんは話す。
「そういえば、麻雀をよくしていましたね。バールフレンドと呼ばれる人たちと麻雀をするのをよく見ましたね」
“バールフレンド”とは志賀の造語で、昔からの女友達のことをいう。
今、裕さんが気にかけているのは、山田家に伝わる遺品の管理である。