日本には文豪と呼ばれる作家がいた。文章や生きざまで読者を魅了し、社会に大きな影響を与えた。だが、彼らも一人の人間である。どんな性格だったのか。どのような生活を送っていたのか。子孫に話を聞き、“素顔”をシリーズで紹介していく。第2回は志賀直哉。
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大正時代の文学界にはいくつか思潮があった。谷崎潤一郎などの耽美派、芥川龍之介などの新思潮派、そして武者小路実篤、志賀直哉らの白樺派である。
白樺派とは大正デモクラシーで、自由な思想が広がっていることを背景に、理想主義、人道主義、個人主義を掲げた作家たちを指す。雑誌「白樺」を中心に活動した。
「おじいちゃまは私が大学2年のときまで存命でした」
こう話すのは、白樺派を代表する作家・志賀直哉の孫の山田裕さん。
生涯23回引っ越しをした志賀が最後に住んでいた渋谷区常磐松町の自宅に、裕さんは頻繁に通っていたそうだ。
「私は妹と2人きょうだいなのですが、父の海外出張に付き添い、母も海外に行くことがよくあり、1カ月程度、祖父のところに預けられることもありました。私は四谷の学習院初等科に通っていたため、私たち家族が住んでいた荻窪より、常磐松のほうが近かったので通いやすかったですね。妹が学校に入る際、常磐松から通いやすい青山学院初等部にしたくらいで、妹曰く自分の家のように生活していました」(裕さん)
志賀にとっての五女であり、裕さんの母・田鶴子さんは現在92歳で、今も元気で暮らしているそうだ。
志賀は裕さんにとって、作家という特別な存在ではなく、「おじいちゃま」であった。志賀邸から渋谷が近いこともあり、渋谷パンテオン(2003年閉館)に映画を見に連れていってもらったこともよくあった。
「おじいちゃまは当時の人に比べて背が高く、白いスーツにステッキを持っていたので、目立つんですよ。私は気にしていませんでしたが、顔は知られていたので周りの人は、『あっ、志賀直哉だ』と思ったんじゃないでしょうかね」