大阪・四ツ橋のランドマークだった「大阪市立電気科学館(1989年閉館)」を背景に四橋交差点を走る大阪市電901型。広幅の中間扉には当初からドアエンジンが設置されていた。(撮影/篠原丞:1959年11月23日)
大阪・四ツ橋のランドマークだった「大阪市立電気科学館(1989年閉館)」を背景に四橋交差点を走る大阪市電901型。広幅の中間扉には当初からドアエンジンが設置されていた。(撮影/篠原丞:1959年11月23日)

■大阪の街に流線形が走る

 その東京より少し早く流線形路面電車が出現したのは、大阪の街だ。1935年の年末から1936年7月にかけて登場した大阪市電901型で、田中車輌、日本車輛、梅鉢鉄工所の3社で50両が製造された。台車や主要機器は旧1001型木造車からの流用で、鋼体化改造ともいえた。2扉左右非対称配置で、中央に幅広乗降扉を設けていた。妻面が傾斜し、側面もくの字型に膨らむ凹凸のない流線形構造だった。
 
 ここで貴重な写真を見て欲しい。筆者の先達である鉄道愛好家・篠原丞氏からお借りしたものだ。1959年、四橋交差点を走る8系統本田町一丁目行きに充当された今里車庫配置の901型だ。あずき色にクリームのツートンカラーが美しかった。1960年から始まった市電路線の縮小で余剰となり、神戸、本、鹿児島の各市へ譲渡され、残存車は1964年3月までに廃車された。

■「金魚鉢」の愛称で親しまれた

 阪神国道(現・国道2号線)の野田~東神戸を走る阪神電気鉄道国道線に流線形路面電車71型がデビューしたのは1937年3月だった。71~75が汽車製造、76~80が川崎車輛で製造された。全鋼製の車体は全長14.2m、3扉左右対称配置で、乗降用のホールディングステップと連動するドアエンジンが設置されていた。妻面が傾斜した流線形の張り上げ屋根に加えて、側面幕板を限界まで薄くして、縦方向に大型化した側窓を設置した斬新なデザインだった。マルーンにカーキ色の落ち着いたツートンカラーだったが、大きな側窓をリスペクトして「金魚鉢」の愛称で親しまれていた。

流線形ブームは「杜の都」仙台にまで及んだ。仙台市電の流線形45型は低床式四輪単車だった。仙台駅前(撮影/宮松金次郎:1955年8月11日)
流線形ブームは「杜の都」仙台にまで及んだ。仙台市電の流線形45型は低床式四輪単車だった。仙台駅前(撮影/宮松金次郎:1955年8月11日)

■流線形が杜の都仙台を走る

 1938年になると「杜の都」と称えられる仙台市電にも流線形のモハ45型が出現した。仙台市交通部(後年仙台市交通局に改称)のモハ43~45の3両で、梅鉢車輛の製造だった。妻面が傾斜した流線形の張り上げ屋根構造。塗色はマルーンにブルーグレーのツートンカラーと推察される。

 現在の杜の都からはまったく想像すらできない1955年の仙台駅前を走る流線形の車両をご紹介しよう。編集者であり鉄道写真家でもあった大御所・宮松金次郎氏が撮影した写真を、親族の方からお借りすることができた。10系統北二番丁交通局前行きの45型で、この時代の仙台市電の塗色は淡いマルーンの腰部に白帯を巻き、窓周りと扉がブルーグレー、屋根はグレーの配色だった。戦時中の酷使で車体の老朽化が激しくなり、ボギー車の増備によって1965年に退役している。

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コロナ禍のあとに新たなデザイン?