学習院下を発車して神田川に架かる都電専用の高戸橋を渡る32系統早稲田行きの都電。画面右側は砂利場と呼ばれて、建築材料店が軒を連ねていた。 学習院下~面影橋(撮影/諸河久:1963年2月10日)
学習院下を発車して神田川に架かる都電専用の高戸橋を渡る32系統早稲田行きの都電。画面右側は砂利場と呼ばれて、建築材料店が軒を連ねていた。 学習院下~面影橋(撮影/諸河久:1963年2月10日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、神田川を渡る高戸橋と鬼子母神前を走る都電だ。

【現在の同じ場所は激変した!? 鬼子母神前など当時の貴重な写真はこちら(計8枚)】

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 往年の早稲田停留所から32系統荒川車庫行きに乗車すると、古い家並をかき分けるように専用軌道を走る。一転して併用軌道に変わると次の面影橋停留所に到着する。

 都電が走る早稲田線(現・荒川線/愛称「東京さくらトラム」)は旧王子電気軌道から引き継いだ路線で、開通当初の1928年には面影橋が終点だった。停留所の北側に位置する神田川に架かる面影橋を渡り、少し左に歩くと、太田道灌の故事にちなむ「山吹の里」の石碑がある。

 面影橋を発車して300mくらい走ると高田馬場駅前に向かう戸塚線との分岐点だ。早稲田線はこの分岐を右折して学習院下方面に向かい、戸塚線は直進して明治通りに上って行った。早稲田線は右に急カーブすると周囲の視界が開け、神田川を渡る高戸橋にさしかかる。
 
 冒頭の写真は、専用橋の高戸橋を渡る32系統早稲田行きの都電を神田川南岸から写している。手前に向かって走ってくる170型は王子電気軌道から引き継いだ車両で、終始荒川車庫を離れることなく、同系の160型と共に1968年まで稼働した。

半世紀が経過し、マンション群が建ち並ぶ高戸橋風景。左端の高層建築が「サンシャインシティ」で、明治通りの拡幅と神田川の改修工事でやや下流側に橋梁が移設されている。(撮影/諸河久)
半世紀が経過し、マンション群が建ち並ぶ高戸橋風景。左端の高層建築が「サンシャインシティ」で、明治通りの拡幅と神田川の改修工事でやや下流側に橋梁が移設されている。(撮影/諸河久)

■デッキガーター構造の鉄橋

 都電の専用橋は信濃町編や亀戸編でも紹介したが、この高戸橋はデッキガーター構造の本格的な鉄橋で、都電は川面に轍音を響かせて渡河している。この一帯では神田川の水利で立地した製薬会社や染物工場が、大正・昭和期から盛業していた。画面右側の高田南町界隈はかつて砂利場とも呼ばれ、建築材料の店が軒を連ねていた。

 次の写真は高戸橋の近景で、左側の背景に白く輝く建物が1978年に竣工した60階建ての超高層ビル「サンシャインシティ」だ。明治通りの拡幅と神田川の改修工事により、若干であるが橋梁が下流の東側に移設されている。背景右側の木造家屋は高層マンションの街並みに変貌し、かつての面影すらも偲ぶことができなかった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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