一月頃までは堅いツボミだったツバキの木も、近づく春の陽光の中、ぽつりぽつりと開花を始めました。晩秋から冬を彩り続けたサザンカやカンツバキから、緩やかに常春(とこはる)の花・ツバキへと、季節は引き継がれてゆきます。そんなツバキの季節の始まりを宣言するように、本日2月8日は「ツバキの日」。昭和中期には椿油産出でダントツの全国一位だった長崎県五島市が制定しました。
この記事の写真をすべて見るツバキ列島・日本。日本人はその恵みを受けてきました
日本原産種のヤブツバキ(藪椿 Camellia japonica)、暖地に適応したサザンカ(山茶花 茶梅 Camellia sasanqua)は、古くから日本文化の形成と深く関わり、日本人に愛され続けてきました。特にヤブツバキは照葉樹(常緑広葉樹)林形成の標徴木ともされ、本州、四国、九州、南西諸島に広く分布します。ただ、西日本では海岸沿いから内陸まで広く分布しますが、東北や北陸などでは冬の季節風が当たらず、比較的温暖な海岸沿いに生育地が集中します。
野生のヤブツバキの花は直径5~7センチ、淡紅色の鮮やかな花弁と副弁花のように突き出た雄しべ先端の葯(やく)の黄色、艶やかで濃い緑色の葉の対比は、色彩の乏しい早春の景色を鮮烈に彩ります。満開状態でも完全に平開せずに、半開きのカップ状になる花の形状は、どこか奥ゆかしく、控えめな印象を与えます。
花は、花弁と花弁から変態した雄しべが根元で融合しており、咲き終わると花柱と子房を残して花弁・雄しべはその形のままぽとりと落ちます。このため脱落した花を観察すると、根元の部分に花柱が貫いていた部分がぽっかりと真ん丸い穴になっていて、造花のパーツのようにも見えます。
花茎に残った子房は、次第にふくらんでゴルフボールほどの緑褐色のてかてかとした丸い堅果になります。種子が成熟すると果皮は乾燥して茶変し、自然に三つに裂開して中から朝顔のタネをそのまま大きくしたような形の、長さ2センチほどの黒っぽいタネが3~6個ほどこぼれ落ちてきます。
ツバキのタネは良質な油分を多く含有し、初秋の頃収穫して乾燥させ、蒸しあげて圧搾することで、椿油(カメリア油)が取れます。現代では椿油というと、主にスキンケアや頭髪ケアに使用するイメージしかないかもしれませんが、かつては灯油や食用油としての利用も盛んでした。鎌倉時代頃には禅僧の精進料理に欠かせないものとなり、江戸時代初期に発案された天ぷらも、椿油で揚げられました。現在でも一部の高級天ぷら店では、椿油をごま油などとブレンドして使っています。
驚異の優れもの。伝統の天然オイル・椿油を見直そう
椿油はオレイン酸の含有量が80%以上もあって植物性油の中でもっとも高いのが特徴。オレイン酸は不飽和脂肪酸で酸化しにくいため、体内で活性酸素と結びつくことがほとんどなく、成人病関連の予防や改善の効果も期待できるといわれています。椿油を皮膚や髪に使用すれば、保湿や紫外線対策の効果が期待できることも知られています。
現在、椿油の生産は、都道府県別ではなんと東京都が1位。2位は長崎県で、この二都県で全国の椿油生産約45tのうちほとんどの43tを産出しています。長崎では西海に浮かぶ五島列島、東京では伊豆諸島と、それぞれ温暖な離島が産出地として知られています。
五島列島には900万本ものヤブツバキが自生しており、島内各地にある美しいキリスト教会とツバキの花の取り合わせは何とも魅力的です。また、日本三大うどんの一つである「五島うどん」には、椿油が練りこまれています。
一方、伊豆諸島の椿油は、伊豆大島産が中心と思われがちですがそうではなく、利島(としま)という小さな島が大産出地です。利島では、森林の樹種の8割がヤブツバキの木で、傾斜地の多い島内にはツバキのタネを運搬する産業用モノレールがはりめぐらされています。まさに「ツバキの島」ですが、この人口300人あまりの小さな島で、日本の椿油の60%が生産されているというのだから驚きです。五島列島も利島も、植栽・接木された木ではなく自然木から採取していることから、国産椿油は他国産のカメリア油(ツバキ属の種子から取ったものの総称)とは比べ物にならない高い品質として知られているのです。
離島でほとんどの椿油が生産されていることは意外な感がありますが、逆に言うと日本列島のほとんどの地域で、この優れた植物油を生産しようとしていない、ということでもあります。日本列島には自生するツバキの木がもともと多く、戦後の都市化でかなりが伐採されてしまったとはいえ、それでもまだまだ各地に残っています。また、公園や庭木の植栽としてもツバキやサザンカは数多く植えられています。地中海のオリーブオイルが今も変わらず盛んに生産されているように、「東洋のオリーブオイル」と言ってもよい椿油を、全国で生産促進していくべきではないでしょうか。スーパーでえごま油や米油などと同じように普通に食用椿油が棚に並ぶようになって欲しいものです。
不老不死、巨木の跡に出来た湖…。ツバキにまつわる伝説四方山
ツバキは特別な霊力のある神木と信じられてきました。ツバキの花は、椿茶として滋養強壮薬としても知られています。日本書紀などに見られる、正月卯の日に地面を突いて破邪・厄除けを行う呪具である卯杖(うじょう)。正倉院南倉に所蔵される「椿杖(つばきのつえ)」は天平宝字二(758)年初卯の日の魑魅悪鬼払いの行事に用いられたと伝わる卯杖で、その材はツバキです。古くからツバキの木は長寿の象徴であるとともに、その精油は不老不死の霊薬であるとも信じられてきたのです。
若狭国(福井県)で人魚の肉を食べ、不老不死の肉体を得て八百歳まで生きて自ら入滅したと伝えられる八百比丘尼(やおびくに/はっぴゃくびくに)。200歳になる頃、家族も友も伴侶も全て亡くし、自分だけが若いまま生き続けることを嘆き、出家して尼僧となって諸国を行脚しました。そして各地でツバキを植えて歩いた、と伝わります。
日本に密教を伝えた真言宗の開祖・空海もまた、ツバキで作った錫杖(しゃくじょう)を携えて全国を巡り歩きました。空海縁起の逸話は全国に見られるものですが、大分県豊後高田市に隣接して鎮座する椿大堂、椿堂、椿光寺はそれぞれが空海(弘法大師)による開基と縁起を伝えています。ツバキと空海の縁の深さをうかがわせます。
神話では、天孫降臨した邇邇芸命(ににぎのみこと)を高千穂峰まで道案内したことから、「道拓き」「道引き」の神として知られる猿田彦命(さるたひこのみこと)が、日本の国分けを行った際にツバキの苗木を日本中の国境に植えて回ったという伝説があります。猿田彦命は衢の神(ちまたのかみ)、椿大明神という異名を持ち、三重県鈴鹿市の伊勢の国一之宮・椿大神社(つばきおおかみやしろ)は猿田彦命を祀る神社の総本社ともいわれるのです。
ツバキの語源は、つやのある葉から「艶葉木(つやばき)」とする説が一般的ですが、道分(みちわき)から来るともされます。遠い昔、道なき道のしるべとして、大きなツバキの木などが目印となったためかもしれません。ここから、道案内の神・猿田彦命と結びついたと考えられます。
関東地方の民間伝承では、猿田彦命が植えたツバキの木のうち、上総の国と下総の国の境に植えられたツバキは80万80年の時が過ぎる頃、雲つくような大木に育ち、周辺一帯の香取・海上・匝瑳(そうさ)の空を覆いつくし、花の時期には空が真っ赤に燃えるようだったと伝えられています。ところが、いつの頃かその木に「鬼満国」の鬼が棲みつくようになり、故郷の伊勢・五十鈴川にいた猿田彦命はこの噂を聞きつけ、香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)とともに、鬼退治に乗り出しました。二神は、天の鹿児弓に天の羽々矢をつがえ、ツバキの木に棲みついた鬼に射かけます。鬼はびっくりして木から飛び降り、ツバキの幹をかかえてゆさゆさとゆすって抵抗しましたが、二神の攻撃には敵わず、ツバキの木を引き抜くと、東の海の彼方へと逃げ去っていきました。このツバキの根が引き抜かれた大きな穴に海水がたまり、「椿の湖」が出来た、といわれます。
現在の旭市付近にあった面積7,200ha、山手線エリアがすっぽり入るこの広大な汽水湖は、江戸時代食糧増産のために干拓され、干潟八万石と呼ばれる水田地帯に変貌しました。
ツバキは日本の花の代名詞でもありますが、近年の人気はいまひとつ。「東洋の薔薇」と讃えられ、日本、中国、欧米では数多くの園芸品種も作出されていて、特に近年の品種の艶やかさとバラエティには目を見張ります。多くの人に関心を持ってもらいたいものです。
植物の世界 朝日新聞社
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