先生が先生をいじめる。
市長が抗議の座り込みをする。
前者は神戸市で起こった事件。後者は愛知トリエンナーレの展示を巡っての、河村たかし名古屋市長の行動だ。
僕は武田砂鉄さんの本誌連載を楽しみに読んでおり、最近の、市長のふるまいに対する批判にも肯(うなず)くばかりだ。
しかし「市長が抗議の座り込みをする」という言語には、どういうわけか面白みが宿っている。SNSでときどき回ってくる、子供の国語のテストの解答欄の、間違ってるがあってる答えみたいだ。
先生が先生をいじめる、にも同様の言語的違和感がある。
普通「いじめる」のは「生徒が生徒を」だろう。「先生が生徒をいじめる」もまだ分かる(あってはいけないんだが)。「生徒が先生をいじめる」になるとそこには転倒がある。本来、生徒は先生より弱い立場のはずだから。でも、それも起こりうることだという認識はある。
そこにきて「先生が先生をいじめる」ときた。パズルの別解というか、あ、まだ「先生」と「生徒」と「いじめる」でその組み合わせがあったか! みたいな(爽快な)気持
ちに一瞬だがなる(なってしまう)。
「市長」と「抗議の座り込み」もだ。市長といえば、おおざっぱにいえば権威側だ。抗議の手段が座り込みしかないのは権威をもたない側のはずだ。似た例でいうと「社長がストライキ」みたいなことか。だがそれだと「社長」「ストライキ」の字義に照らして矛盾が生じる。「市長の座り込み」は、抜け穴というか、辞書的におかしいことにはならない。実際これまでも――たとえば、より大きな権威の決定した基地の建設とか森林の伐採などに反対し――市民らとともに座り込みをした首長がいるかもしれない。そういう「いい話」っぽさをここでは感じ取りにくく、言語的矛盾のみが際立っている。
これらの「その手があったか!」という誤った感じ方は、おおげさにいえば「詩」に隣接している。
いや、詩かどうかはともかくとしても「先生が先生をいじめる」と「市長が抗議の座り込み」は「事態」であると同時に「そういう言葉」でもある。