党内での福山評は「とにかく気遣いの人」。与党議員に対しても礼儀を尽くし、どんな思想や立場の人ともフェアに接する。しかし、不条理な物事に対しては敢然と立ち向かう
党内での福山評は「とにかく気遣いの人」。与党議員に対しても礼儀を尽くし、どんな思想や立場の人ともフェアに接する。しかし、不条理な物事に対しては敢然と立ち向かう

 松田は後に福山が政治家になると決めた時、当時の下宿先を訪ねている。8畳ほどのワンルームに布団。ただ、足の踏み場もないぐらいに、数え切れないほどの本が積み上がっていた。

 福山はこの頃、自ら心に決めたルールがあった。「貧しさが顔に出ないように、なるべく笑顔でいる」。あの芹沢光治良の『人間の運命』。さまざまな苦難を乗り越え、理想に燃えて生きる主人公・次郎に、福山は自分の運命をなぞらえていたのかもしれない。

 京都を東西に走る押小路(おしこうじ)という路地がある。そこは、選挙の度に「ふくちゃん通り」と支援者から呼ばれる。

 1996年の衆議院選挙に旧民主党公認として京都1区から立候補(落選)して以降、福山は民主党、民進党、立憲民主党と、三つの党をまたいで4回の参議院選挙を勝ち抜いてきた。

 そもそも京都という地盤は特殊だ。自民党からは元内閣官房長官の故・野中広務、元文部科学大臣・伊吹文明(81)など大臣経験者が輩出。共産党には大ベテランの現職、国対委員長・穀田恵二(72)がいる。そんな自共王国に、そのどちらでもない第三極としてリベラルの旗を掲げて割って入ったのが京都民主党を立ち上げた福山であり、後に袂(たもと)を分かつことになる衆議院議員・前原誠司(57)だ。

■酒断ちできなかった父 最初の選挙前に亡くなる

 福山が初めて政界を目指した時、押小路にあった自宅をミニ集会の会場として開放した長谷川美子は、その時の熱気をこう回想する。

「20人も入ればいっぱいになる自宅に、およそ150人の市民が押しかけました。道路にまで人が溢れ、ふくちゃんの話を真剣に聞いていました。京都に市民が望む新しい政党ができる。その熱気に新しい時代の到来を感じました」

 その一方、市民意識の高い土地として知られる京都では、有権者と政治家の間にも「一線」がある。政治家は一時の好き嫌いで判断するのではなく、長い目でウォッチするもの。福山の政治家としての活躍と人となりを、長年、間近で見てきた支援者の岩木隆幸は言う。

「福山さんには志がある。けれども、風見鶏のところもあって、沖縄の基地や原発の問題に関しては、その時々で立場を豹変(ひょうへん)させることがある」

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