パソコンは使わず、原稿は今も万年筆で原稿用紙にしたためる。筆まめで知られ、対面取材で足りない部分は何度も手紙を出して補った(撮影/葛西亜理沙)
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パソコンは使わず、原稿は今も万年筆で原稿用紙にしたためる。筆まめで知られ、対面取材で足りない部分は何度も手紙を出して補った(撮影/葛西亜理沙)

 特別な言葉も受け取った。保阪を支え、人生を照らし続けた妻・隆子が平成25年6月に66歳で急逝した。最愛の妻との別れを表現できる言葉などなかったが、翌夏、雑誌に文章を寄せた。その秋に参内。天皇が「保阪さん、大変でしたね」と述べ、皇后が「奥様は心の中で生きてらっしゃいます」と続いた。落涙をこらえ、心で泣いた。

「物書きとしては大きな経験でした」と努めて冷静に振り返るが、「物書き」以上に「一個人」として時の天皇に向き合えた喜びは大きいだろう。

 今秋、郷里・北海道の文学館で企画展「ノンフィクション作家・保阪正康の仕事」が開催される。150冊近い著作を展示し、半世紀の軌跡を紹介する。元講談社の阿部は「150」という数字に感慨深げだ。「たくさんの本が長きにわたり形を変えて読みつがれた証しです」

 当人は「残された時間も、そう長くないからね」と照れ笑いするが、『昭和の怪物~』担当の小林にはこう説いたそうだ。「物書きって中華料理のくるくる回るテーブルと同じ。お皿が目の前に来たらたくさん書かなくちゃ」。ご馳走の皿に、旺盛な執筆意欲を隠せない一匹狼なのだった。

(文中敬称略)

■保阪正康(ほさか・まさやす)
1939年/北海道生まれ。旧制中学の数学教師だった父の転勤に伴い、道内を転々とした。戦中の記憶として残るのは5歳のとき。室蘭で空襲を受けた際、青空を編隊を組んで飛ぶB29爆撃機を見たくて防空壕から飛び出し、母親に激しく叱られた。
46年/4月、小学校入学。中学は札幌市立柏中。高校は北海道札幌東高校に進み、放課後には映画を見たり北海道大学の「シナリオ研究会」に通ったりという3年間を送った。
59年/4月、京都大学を目指して1浪ののち、同志社大学文学部社会学科へ進学。演劇研究会に所属し、演出や脚本を学んだ。3回生の時には特攻隊員と60年安保をモチーフにした創作劇「生ける屍」を手がけた。
62年/秋、就職活動で全国紙の試験を受けたが、最終面接で「革命が起きたらどうする」と聞かれ「革命の側に立つ」と回答し、面接官の失笑を買った。
64年/知人のつてで「電通PRセンター」に入社。以後、何度か転職。「朝日ソノラマ」では、大宅壮一や丸山邦雄などと仕事をし、ビートルズ初来日の折には破天荒な編集部記者の発案で、ビートルズの突撃取材を試みた。
71年/TBSブリタニカを退社して独立。翌年、『死なう団事件』で作家としてデビュー。刷り上がった見本本がいとおしく、枕の横に置いて添い寝をした。
87年/12月、「文芸春秋」での特集を元にした単行本『瀬島龍三 参謀の昭和史』を発表。謎めいた財界人に対する注目度は高く、ベストセラーに。
89年/1月、昭和天皇が逝去。前年から秩父宮の評伝を書き進め、4月『秩父宮と昭和天皇』として発表。担当編集者の藤沢隆志は保阪の原稿に手厳しく、たびたび押し問答に。藤沢は「厳しいこともたくさん言いましたが、最後は納得して受け入れてくれました」と恐縮しきり。
2000年/昭和史を「もし」の切り口からエッセーふうに書いた『昭和史七つの謎』がヒット。現在発売中の『昭和の怪物~』はこの本に着想したという。
04年/一連の昭和史研究と、元兵士たちの証言を集めて独自でブックレット「昭和史講座」を刊行し続けた功績で、第52回菊池寛賞を受賞。この冊子の編集には妻・隆子もかかわっていた。
13年/6月18日、隆子死去。くも膜下出血だった。
17年/『ナショナリズムの昭和』で第30回和辻哲郎文化賞を受賞。

■浜田奈美
1969年、埼玉県生まれ。早稲田大学教育学部卒。93年朝日新聞社入社。be編集部やAERA編集部、文化部などを経て、現在、地域報道部に所属。

AERA 2019年8月5日号

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