昭和史研究の「兄」である半藤一利(左端)など、昭和史通が集う懇談会では歴史談議に花がさく。書店に並ぶ歴史関連の著作への「ダメ出し」や、爆笑ものの出版裏話も飛び交う(撮影/葛西亜理沙)
昭和史研究の「兄」である半藤一利(左端)など、昭和史通が集う懇談会では歴史談議に花がさく。書店に並ぶ歴史関連の著作への「ダメ出し」や、爆笑ものの出版裏話も飛び交う(撮影/葛西亜理沙)

 教訓は、山ほどある。例えば、昭和19年10月のレイテ決戦。戦地に送られた8万4千人のうち8万人が戦死した戦闘だが、その直近の台湾沖航空戦で「大勝利」したとの誤報が、無謀な作戦に繋がった。このとき一人の情報参謀が「戦果に疑問あり」と打電したにもかかわらず、その電報は無視されていた。握りつぶしたと目される作戦参謀は戦後、政権のブレーンとなった瀬島龍三。保阪は昭和62年発表の『瀬島龍三 参謀の昭和史』で、その史実に迫ってみせた。

 300万人超の命が失われたあの戦争の責任を問われることなく、戦後の政財界で暗躍した軍官僚たちがいる。その残影が現代日本に継承されたと確信するからこその「東條論」なのだった。

 今や「昭和史研究の大家」となった保阪にも、悩める少年時代や青春時代はちゃんとある。

 北海道の旧制中学で働く数学教師の父と、聡明な母の長男として生まれた。父は風変わりで威圧的だった。まだ幼い長男を夜な夜な正座させ、書き方の練習を強いた。「かわいそうです」と制する母をよそに、決めた回数を終えるまで許さなかった。中学2年の冬、お年玉を貯めてスケート靴を買い求め、帰ると父が怒って待っていた。しつこく説教する父。長男はスケート靴を抱きしめて抵抗。父は靴を取り上げ、窓の外に放り投げた。

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 関係修復は父が病臥した45歳のとき。肺がんで余命半年と聞いた保阪は病床に通い、父の半生を聞き取った。幼少期の「音の記憶」が印象的だった。学生だった姉が毎朝、玄関先で制服のバンドをしめる音が大好きだったと言う。「そのパチンと言う音が一日の合図だったと。その話で父を信頼しました」。そういう情景を語る人を、無条件で信頼する癖があると言う。

 そんな癖が表出したのが、平成5年に発表した後藤田正晴の評伝である。徳島県の山間部で生まれた後藤田は幼くして父を亡くした。担がれてきた父の棺を母の横で見ていた後藤田は、自分を抱きしめる母の腹が波打っていた記憶を語った。「母親が嗚咽していることに幼い少年が気づいた情景です。『この人は信頼できる』と思ったね」。迷わずこの情景から書き出した。

 中学は、両親の意向で進学校に越境入学。この中学で1学年上の西部邁と知り合う。長じて評論家となった西部は秀才として知られた存在で、通学途中の駅などで交わす会話は刺激的だった。

「人間と猿の違いって何だと思う」と西部。「人より毛が3本少ないこと」と保阪。「生産手段を持っているか否かだ」と西部。こうした西部との会話が、保阪を知的な世界へと誘った。

 高校進学で離れ離れになるが、友情は、西部の死の直前まで続いた。昨年1月、西部は多摩川で自殺を遂げたが、そのひと月ほど前、最後の著書が保阪の自宅に送られてきた。「1カ所、折り目がついてた。死ぬって決めてたんだね」

 大学は京都の同志社大学へ進学。演劇研究会に所属し、学生運動を横目に演劇活動に勤しんだ。4年の秋、テレビドラマで見た新聞社の空気にひかれ「新聞記者になろう」と思い立つ。ある全国紙の最終面接に残ったが、結果は「地方記者で」という条件付きの内定だった。

 これを断り、電通PRセンターに入社。この仕事で新聞記者や雑誌編集者と親しくなり、物書きへの夢が膨らんだ。2年半で朝日ソノラマへ転職。作家の大宅壮一など著名な論者たちとの仕事で経験を重ね、28歳で「独立」を志して同社を退社。しかし結婚が決まり、「安定」を求めてTBSブリタニカに入社。それでも「自分の筆で生きる」という思いは消えなかった。

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