慶應MCCの一コマ。受講生のチェ・スルギ(35)は数年間の韓国駐在から戻り、日本の右傾化に驚いて受講を決めた。「日本国民が政治に関心が低い背景がわかってきました」(撮影/葛西亜理沙)
<br />
慶應MCCの一コマ。受講生のチェ・スルギ(35)は数年間の韓国駐在から戻り、日本の右傾化に驚いて受講を決めた。「日本国民が政治に関心が低い背景がわかってきました」(撮影/葛西亜理沙)

 昭和史を「人」から書き起こす著作の先達たる半藤が、保阪の仕事で最も高く評価するのは『昭和陸軍の研究』だ。月刊「Asahi」で平成2年夏から26回続いた連載を、増補して平成11年に発表した大作。なぜ昭和陸軍があれほどの災禍を引き起こしたのか。史実に分け入り、その解明を試みている。半藤は「司馬(遼太郎)さんでも手に負えなかった昭和陸軍を、徹底検証したからね。何が偉いって、彼は大新聞とかの後ろ盾のない一匹狼。軍人たちの語る虚実を自分の頭で選り分けてね。大したもんだよ」

 東京大学名誉教授の姜尚中(68)は「在野のまれびと」と形容する。「大学教授であれば史料探しはさほど難しくはありません。アカデミズムと距離を置き、在野で昭和史を『人』からすくい続けた。稀有な存在です」と称賛する。

 保阪は在野で生きながら技術を磨いた。同じ相手に何度でも会う。戦地での重い話を聞く時は、相手が話しやすい場所を厳選する。半藤は「あれほど人に会ってきた物書きはいません。何度も会うから信頼される。あの人の人徳だよね」と褒めちぎる。

 ゆえに仕事仲間にも愛されてきた。平成5年2月、長男・康夫が22歳の若さで急死し、保阪が喪失感に苛まれていた折、各社の編集者が次々に励ました。前出の浅見が回想する。「悲嘆する姿から、息子さんへの愛の深さが伝わってきましたね」。2年後の春には「保阪正康を囲む会」が開かれ、後藤田も駆けつけ「私より私を知る男だ」と激励した。

 息子の死後、数年ほど作業を中断した『昭和陸軍の研究』だったが、最終的に1千人近くの元兵士に取材し、丹念に書き起こした。

 例えば、日中戦争での蛮行を特別軍事法廷で裁かれた元中尉・鵜野晋太郎には、最高人民検察院の起訴状などをもとに取材した。保阪が隅田川の土手につれ出すと、鵜野は「ある軍医に『しゃれこうべが欲しい』と頼まれ、捕虜を斬り殺し、別の捕虜に頭の皮を剥ぎ取らせた」と語った。

■一兵卒の声なき声集め「悼み受けつぎ次代へ」

 あるいは、昭和13年夏の「張鼓峰事件」で捕虜となった成沢二郎。ハバロフスクにある極東赤軍博物館で見た写真が気になり、戦友会を訪ね歩き、居場所を探った。成沢は74歳となり、長野県飯田市でひっそりと暮らしていた。

 地元の温泉に案内され、お湯の中で取材は進んだ。貧しい家に生まれ育ったことや「事件」の全容、17年の捕虜生活。帰国後、厚生省(当時)から扶助料の返金を求められたこと。保阪はこれらの証言を記しつつ、「高級軍人たちは戦後も(略)恩給を受けていた」と怒りを込めて付け加えた。

 成沢のような一兵卒たちの声なき声は、人知れず消える運命にあった。「記録を残せるのは高級軍人たち。史料だけでは、実際に戦場で戦った兵士たちの体験を見落としてしまう」

 昨年、時を経て発売された「選書版」のあとがきに、改めてこう記した。

「兵士たちは戦場で逝った仲間の名を忘れていない。(略)かつてあの戦争の時代に(略)戦場に行かされた、私より十五歳から二十歳ほど上の世代に、あなたたちの悼みを受けつぎ、そこから教訓を学んで次代に伝えますと約束する」

 78歳の決意表明だった。

 そして80歳になろうという年に新しい時代を迎えた。平成の評伝を書くとしたら誰だろう。そう問うと、「天皇ですね」と即答した。平成後期、何度か参内し、当時の天皇、皇后両陛下と「雑談」を交えた会食に呼ばれた経験がある。

暮らしとモノ班 for promotion
「更年期退職」が社会問題に。快適に過ごすためのフェムテックグッズ
次のページ