2009年から朝日新聞の書評委員を務める。月に2回の委員会にも極力出席する。画家の横尾忠則(左)や哲学者の柄谷行人らとは「長老組」として親交を深める(撮影/葛西亜理沙)
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2009年から朝日新聞の書評委員を務める。月に2回の委員会にも極力出席する。画家の横尾忠則(左)や哲学者の柄谷行人らとは「長老組」として親交を深める(撮影/葛西亜理沙)

 転機は昭和45年秋に訪れた。11月、三島由紀夫が割腹自殺。朝日ソノラマの編集部に立ち寄ると、編集部員が三島のばらまいた檄文をくれた。「共に起ち、共に死なう」とある。「共に死なう」に見覚えがあった。翌日、国会図書館へ。過去に目を通した週刊誌に昭和12年に起きた「死なう団事件」が取り上げられていた。「死なう団」という宗教団体が都内各所で切腹自殺を図った事件だが、さらに調べると、特高警察にテロ集団と誤認されて拷問を受け、抗議として起こした事件だった。ところが年鑑などには「狂信者のテロ」とある。「なぜ史実が歪むんだ」。腹は決まった。「年表の1行にも人の生死が関わっている。その1行を一冊にまとめる仕事をしよう」。翌春、退社。31歳だった。

■昭和陸軍が起こした災禍、史実に迫る在野の一匹狼

 事件の生存者を訪ね歩いて書き上げた『死なう団事件』は昭和47年1月、「れんが書房」から刊行された。推薦文を松本清張に依頼したこともあり、売れ行きは上々。しかし4月、一人の訃報が届いた。取材の過程で特高警察に通じていた人物が教団にいたと確信し、その人を訪ねた。

 無粋な質問はしなかった。それでも帰りぎわ老人は「ありがとう。一生の重荷だった」。著書でも触れなかったが、一読してほどなくホーム屋上から身を投げたという。「人の命を奪う権限があるのか」。1年ほど煩悶。「自分の筆で人が死ぬこともある。その覚悟がなければ」と結論づけた。

 そしてデビュー作以後、作品が編集者を呼び、新たな分野に挑戦する流れが生まれた。講談社学芸局の編集者だった阿部英雄(76)とは初対面で意気投合し、まだ草創期だったノンフィクションのイメージを語り合った。草思社の創業者・加瀬昌男は「東條英機の評伝を」と提案。戸惑ったが「史実から生み出す評伝を」という言葉に納得し、挑戦を決めた。

 保阪は「物書きとして4千人に会った」と公言する。一貫して人に会い、証言を求めた成果だが、その手法こそ東條の評伝のために編み出したものだった。約3年、国会図書館に通い、史料や著作を読み、取材リストを作成。丁寧に手紙を書き、返信用のはがきを封書に入れて送付。すると7割以上の200人ほどが「会う」と返信してくれた。特筆すべきは東條の妻カツへの取材が実現したことだ。計20回ほど会い、「日米開戦前夜、東條が泣いていた」という秘話などを聞き出した。

 依頼から7年後、評伝を書き上げた。しかし東條の評価をめぐる意見が加瀬と折り合わず、知人を介して「伝統と現代社」から昭和54年12月、『東條英機と天皇の時代』の上巻を発表。出版各社の編集者たちに「保阪正康」の名が刻印された。

 元文藝春秋の浅見雅男(72)は、上巻を一気に読了したという。「歴史の悪役の評伝はまだ少なくて、こと東條においては『全て東條のせいにしておけばよい』という時代でした。保阪さんの著書は昭和天皇との関係性などが客観的に書かれて、実に面白かった」と語る。

 浅見は昭和57年春、保阪に週刊誌での仕事を依頼。数年後に「秩父宮」の評伝を提案した。58年、「週刊朝日」の編集部にいた蜷川真夫(81)も保阪に会い、田中角栄の支持基盤のルポを依頼した。

 作家の半藤一利(89)が保阪に注目したのは、文藝春秋の昭和62年5月号の特集「瀬島龍三の研究」だった。「若いのに、神格化された参謀によく食らいついている」と感心したという。

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