昭和通りの渋滞を横目に、上野駅前から続くセンターリザベーションの軌道をスイスイ走る21系統水天宮前行きの都電。秋葉原駅東口~岩本町(撮影/諸河久:1965年4月16日)
昭和通りの渋滞を横目に、上野駅前から続くセンターリザベーションの軌道をスイスイ走る21系統水天宮前行きの都電。秋葉原駅東口~岩本町(撮影/諸河久:1965年4月16日)
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 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回はサブカルチャーの発信地「秋葉原」駅東口付近の昭和通りを走る都電だ。

【54年が経過して秋葉原東口は激変!? 現在の風景や当時の貴重な写真はこちら】

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 半世紀もたてば、街は大きく変わる。

 ただ、世界有数の電気街として活気があった秋葉原の変貌は、筆者のような昭和を生きた人間にとって、「驚き」以上に一抹の寂しさを感じる。

 写真は秋葉原駅東口停留所を発車して国鉄(現JR)総武線の高架橋をくぐる21系統水天宮前行きの都電。この三ノ輪車庫配置の3103は側窓をアルミサッシに改造している。高速道路網が整備される前の昭和通りは、写真のように自動車渋滞が深刻だった。センターリザベーション方式のおかげで、渋滞を横目に都電はスイスイ走ることができ、広幅道路が無用の長物でなかったことが証明された。未来を予測した後藤新平市長の慧眼に敬意を表したい。

 都電の右奥には1962年5月に開業した営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線秋葉原駅の出入口が見える。また画面左隅には秋葉原貨物駅から荷物を搬出する「ダイハツオート三輪トレーラー」の貴重な姿が写っていた。
 

首都高速道路1号上野線の建設から半世紀。空を失った秋葉原駅東口の憂鬱な風情。(撮影/諸河久:2019年11月19日)
首都高速道路1号上野線の建設から半世紀。空を失った秋葉原駅東口の憂鬱な風情。(撮影/諸河久:2019年11月19日)

東京名物満員電車の黄金時代

 神田川に架かる和泉橋(いずみばし)を渡って上野駅前にいたる和泉橋線が開業したのは1910年9月だった。東京鉄道会社の時代で、翌1911年8月に東京市営となった。明治期から大正期にかけて国鉄(現JR)の山手線は上野駅止まりで、高架線工事が完成して東京駅と繋がるのは1925年を待たねばならなかった。この間、市電路線が市内交通を独占しており「東京名物満員電車…いつまで待てども乗れはせぬ…」という流行り歌までできた路面電車の黄金時代だった。

 1923年9月1日、関東大震災が東京を襲い、すべてが灰燼(かいじん)に帰した。震災後の復興計画で、和泉橋線のルートには「昭和通り」が建設されることになった。昭和通りは「大風呂敷」の異名をとった東京市長後藤新平の構想で着手され、その道幅は108m(六十間)にする原案だったが、広幅道路の重要性が受けいれられず、約60m(三十三間)幅に短縮して1928年に竣工している。筆者は地元の古老が昭和通りを「三十三間道路」と呼んでいたのを記憶している。

センターリザベーション方式の昭和通り

 昭和通りの開通にともなって和泉橋停留所が廃止され、200m上野方に神田佐久間町停留所が新設された。戦時中の休止期間を経て、1948年に秋葉原駅前に改称して復活した。1958年4月、御茶ノ水線が万世橋から414m延伸して和泉橋線に接続したときに、秋葉原駅東口に再改称されている。昭和通りを通る秋葉原駅前から上野駅前まで、約1700mの軌道が新たに「センターリサベーション方式」で敷設された。戦前は千住新橋と土州橋を結ぶ22系統の市電が、新しくなった和泉橋線を行き来していた。

 秋葉原駅東口の昭和通り頭上には、首都高速道路1号上野線が鎮座していた。首都高の開通は1969年1月で、都電和泉橋線廃止は同年10月だったから、都電と高架道路が共存していた時代があったことになる。現場に来て、首都高のさらに上を走るJR総武線の高架橋と画面右側のメトロマークを掲げた東京メトロ秋葉原駅出入口の位置を参考にして、旧秋葉原駅東口停留所跡を推測した。高架道路竣工と都電が廃止されてから、はや半世紀の歳月が流れていた。

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激変した今の秋葉原