京葉道路上はセンターリザベーション構造になっていた。折り返し間合いにしばしの休息を取る38系統日本橋行きの乗務員。錦糸堀車庫前(撮影/諸河久:1964年12月19日)
京葉道路上はセンターリザベーション構造になっていた。折り返し間合いにしばしの休息を取る38系統日本橋行きの乗務員。錦糸堀車庫前(撮影/諸河久:1964年12月19日)

■東京大空襲でターミナルが罹災するも…

 錦糸堀車庫前の西側は、わずかな距離ではあったがセンターリザベーション方式で軌道が敷設されていた。片側二車線ながら、自動車が雑踏を極める京葉道路上のオアシスのような存在で、日本橋に折り返す38系統の乗務員が車中で休息する光景も見られた。

 1936年に錦糸堀を発着する市電は12・29・30・31の四系統だったが、1942年に前述の城東電気軌道の路線が市電(翌年から都電)に統合されることになった。統合時、錦糸堀の市電の軌道は旧城東電軌の小松川線に接続されておらず(相互乗り入れしていた洲崎ではつながっていた)、統合後1944年の運転系統を調べると非常に興味深い。

 1944年、都電になってからの運転系統は2系統(三田~小川町~錦糸堀)、30系統(錦糸堀~水天宮~築地)、31系統(錦糸堀~洲崎~大手町)の三系統に加えて、旧城東から引き継いだ路線は39系統(錦糸町~境川~洲崎)、40系統(錦糸町~西荒川…東荒川~今井橋)、41系統(錦糸町~境川~葛西橋)の三系統が運転されていた。

昭和39年4月の路線図。錦糸町界隈(資料提供/東京都交通局)
昭和39年4月の路線図。錦糸町界隈(資料提供/東京都交通局)

 1945年の東京大空襲で前述の錦糸堀車庫や旧城東電軌の錦糸町ターミナルが罹災した。戦後復興の軌道敷き替え工事が1947年に完成したことで、錦糸堀と小松川線の軌道がつながり、運転系統と区間が大幅に改編された。ちなみに、荒川放水路を越した一之江線(通称:今井線・東荒川~今井橋)は戦後26系統となったが、1952年にトロリーバスの開通で廃止されている。

■戦前からの娯楽場「江東楽天地」

 都電の背景になっている相似形のビルが、映画館・飲食店・温泉と万能のレジャー施設で人気を博した「江東文化劇場」(写真左)と「江東楽天地(後年・東京楽天地に改名)」だ。いまや昭和の語り草になったが、双方の屋上には提灯を吊り下げた「ビアガーデン」が営業中なのが懐かしく感じられる。

 江東楽天地の建物は1980年代の再開発で全面改築され、現在は「西友錦糸町店」「錦糸町PARCO」になり、伝統の映画街も「TOHOシネマズ錦糸町 楽天地」として隆盛しており、「シネマの殿堂は西の有楽町 東の錦糸町」とも呼ばれている。

 余談であるが、江東楽天地は1937年に竣工したレジャー施設の先駆けで「錦糸町界隈の工場勤務者に健全明瞭な娯楽を提供しよう」というコンセプトのもと、宝塚歌劇や阪急の創始者、小林一三が設立に尽力した。国鉄錦糸町駅に隣接した江東楽天地の敷地は、1931年に砂町に移転した汽車製造会社東京支店の錦糸町工場跡であった。

 錦糸町交差点の歩道橋から周囲を展望すると、錦糸町のランドマークでもある東京楽天地の建物が際立って目立つ。錦糸町駅前を発着する都バスが何台も眼下を走り去り、ここが「都バスの楽園」であることを肌で感じ取ることができる。日本がもう少し早く「オイルショック」に見舞われていたら、都電は残存したか……? 多くの都電で賑わった交差点は何も答えてはくれない。

■撮影:1964年8月22日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

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