昭和39年元日の銀座。新春の陽光に映える日章旗をはためかした都電は、正月の風物詩だった(撮影・諸河久:1964年1月1日)
昭和39年元日の銀座。新春の陽光に映える日章旗をはためかした都電は、正月の風物詩だった(撮影・諸河久:1964年1月1日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、「東京オリンピック」が開催された1964年元日の銀座四丁目を走る都電だ。

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 写真は「東京オリンピック」が開催される1964年元日の撮影。この日は晴天に恵まれ、銀座四丁目交差点を通過する40系統銀座七丁目行きの都電を狙った。祝祭日は都電に国旗を掲揚するのが規則になっていたから、新春の陽光に映える日章旗をはためかした都電は正月の風物詩であり、鉄道写真の「撮り初め」にふさわしい被写体でもあった。

 画面右側が「銀座三越」で、元日らしく晴れ着を着た女性も写っている。和服で地下鉄に乗るのは、多くの階段に着物の裾が少しおぼつかなくなる。それに比べ、道路上を走る都電はステップの高さの差こそあれ、和服でも容易に乗降できる利便さがあった。銀座四丁目の停留所は四丁目の路上(上野方面)と、晴海通りを渡った五丁目の路上(品川方面)にあり、明治期の開業時には「銀座四丁目尾張町」と呼称されていた。三越前の道路上で信号待ちしているユニークなスタイルの車は、1960年に登場した「マツダR360クーペ」で、二人乗りの軽自動車だ。

 都電の背景には、銀座四丁目の街並みが望める。左から「和光本館」、「木村屋總本店」、「山野楽器店」、「御木本真珠」、二軒先の「教文館ビル」と続く。教文館ビルまでが銀座四丁目で、画面右端の信号機から先は銀座三丁目になる。

現在の銀座四丁目交差点付近。昭和39年当時の面影もあり、歴史を感じさせる場所だ(撮影・諸河久:2018年12月9日)
現在の銀座四丁目交差点付近。昭和39年当時の面影もあり、歴史を感じさせる場所だ(撮影・諸河久:2018年12月9日)

 映画「007は二度死ぬ」(イアン・フレミング原作 1967年公開)の日本ロケでは、銀座四丁目がロケ地の一つとして選ばれた。日本人初のボンドガールとして起用された若林映子や浜美枝が出演し、都電が走る四丁目の街角は世界中に喧伝された。半世紀を経た現在、和光本館を除いて全ての建造物が建て替えられてしまったが、四丁目の各店舗は同位置で盛業中であることに「銀座の老舗」の力量が窺い知れよう。

 1950年代から和光本館のショーウィンドウは、その卓越したデザインが「銀座の顔」として一躍有名になった。画面左側のショーウィンドウには、五輪マークと「TOKYO1964」をあしらった日章旗に、正月の縁起物の「鶴」のモニュメントを配置した「新春」に相応しいディスプレイだった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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