ただし、『日本書紀』はどれがどの天皇の陵墓かを示さない。百舌鳥古墳群には立派な規模の前方後円墳が複数ある。そこで、平安時代にまとめられた律令の施行細則『延喜式(えんぎしき)』の陵墓リストは、三代の陵名に北・中・南の地理上の区別を明示して記す。百舌鳥野陵は「百舌鳥耳原中陵」という名で載せられた。近代国家が決めた陵名はこれに基づく。
でも、違うのだ。大山古墳の南側約700メートルの百舌鳥陵山(みささぎやま)古墳(石津ヶ丘(いしづがおか)古墳とも)と大山古墳では、並べられた埴輪(はにわ)に違いがある。百舌鳥陵山古墳は墳丘規模が365メートル、列島第三位の超大型前方後円墳で仁徳天皇の子、履中天皇の「百舌鳥耳原南陵」となる。
大山古墳には、須恵器(すえき)の窯業技術を応用した堅い円筒埴輪がならぶ。一方、百舌鳥陵山古墳には、穴を掘った伝統的な野焼きの方法で造った赤く軟質の円筒埴輪が出土する。埴輪を焼く技術革新の前と後、築かれた時期が違う。子の陵墓の方が先代よりも古い。
『古事記』『日本書紀』が描く仁徳天皇が、そのままの実在人物でない場合も「モデルとなる大王が居たはず」と考える人は多い。たとえ、そうであったとしても、葬られた古墳を間違えるような前提があったわけだ。
つまり、五世紀の古墳時代には「仁徳天皇陵」を伝える仕組みがなかった。必要がなかったからだろう。必要となるのは、それ以降のこと。仕組みを整えたのは七世紀の律令国家である。仁徳天皇陵は創られた。大山古墳に聖帝、仁徳天皇が葬られていると言い出したのが誰か。ピンときた方もあるかもしれない。
古墳に天皇の漢風諡号(しごう)を冠してよぶことは、現在の「学」から離れたところにある。今般、「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産登録への政府推薦に際して、大山古墳を新たに名付けた「仁徳天皇陵古墳」などとよぶことの不合理は明らかだ。
日本考古学では現在、宮内庁が管理する歴代天皇をはじめとする陵墓のうち、古墳と認められるものを天皇陵古墳(陵墓古墳とも)とよぶ。陵墓は数珠つなぎ、天皇歴代を可視化した装置である。いっそ、天皇制古墳と言ってはどうかと思っている。