大きな古墳には、立派な人が眠るに違いない。そうだとして、どんなふうに立派だったのか、それは誰が言い出したことなのか。

 戦前の国定教科書『尋常小学国史 上巻』(文部省、1935年)には、人家の竈(かまど)から立ち上る煙を眺める仁徳(にんとく)天皇の挿絵がある。宮殿に天皇が立ち、女性がひかえる。民の生活を不憫(ふびん)に思い、三年間も税を徴収せず荒れるに任せたはずだが、高欄(こうらん)に縁(えん)がめぐる建物に傷んだ様子は見えないと、余計なことを考えてしまう。それは、ともかく『古事記』『日本書紀』に導かれて仁徳天皇の立派さを、約80年前の小学生にわかりやすく教えている。昭和初期、日中戦争の始まる直前のことである。

 同じころに刊行された『東洋考古学』(『世界歴史大系』2、平凡社、1934年)は考古学の概説書である。帝国博物館監査官の後藤守一(もりいち)が日本考古学を概論する。古墳の発達の項では「仁徳天皇御陵及附近の古墳」の図を掲載して「(略)墳丘には埴輪円筒列を繞らし、威儀儼として四方を拂ふの概あり、これが最高頂に達した応神・仁徳天皇時代には、墳丘大小参差して平原に立ち、まこと皇威四方に光被するものがあつたのである」と説く。図は、今で言う大阪府堺市の百舌鳥(もず)古墳群。仁徳天皇御陵は、考古学者の大半が大山(だいせん)古墳(大仙陵古墳とも)とよぶ墳丘規模が500メートルに及ぶ超大型前方後円墳のことである。

『古事記』『日本書紀』が記す仁徳天皇の仁政と最大の前方後円墳の存在をつなぐことに、学問的な躊躇はない。国定教科書の内容に「学」の側からのお墨付きだ。後藤が心底、記したとおりに考えていたか、その学史的な分析は必要だが、概説書となれば学生は皆読んだに違いない。

 古代の律令国家は、大山古墳を仁徳天皇陵だとみなして祭祀と管理を行っていたと、実は思っている。『古事記』『日本書紀』ともに、百舌鳥で最初に築かれた陵墓を仁徳天皇陵だとする。少なくとも百舌鳥古墳群の超大型前方後円墳の存在を元に編纂された蓋然性が高い。

『日本書紀』仁徳紀43年の「百舌鳥野」への遊猟をはじめとして、67年には仁徳天皇自らが行幸して陵地を定める。この際、百舌鳥耳原(みみはら)という地名起源説話が盛り込まれる。そして87年には百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬送された。その後、履中(りちゆう)天皇の「百舌鳥耳原陵」、反正(はんぜい)天皇の「耳原陵」とつづき、皇統譜の第16、17、18の三代にわたる百舌鳥への陵墓の選定となった。

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