「水天宮前」停留所。昔も今も「戌の日」となると参拝客で賑わう場所だ(撮影/諸河久:1964年3月13日)
「水天宮前」停留所。昔も今も「戌の日」となると参拝客で賑わう場所だ(撮影/諸河久:1964年3月13日)
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 2020年のオリンピックに向けて、東京は変化を続けている。同じく、前回の1964年の東京五輪でも街は大きく変貌し、世界が視線を注ぐTOKYOへと移り変わった。その1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、安産・子授けなどのご利益で知られる「水天宮」への参拝客の足として活躍した、水天宮前の都電だ。

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 写真は、水天宮前停留所に到着した21系統の都電が降車扱い中のシーンだ。この3239は3000型の中では側窓が8個の仕様で、三ノ輪車庫に二両しか在籍しない希少車種だった。停留所名は「水天宮前」だが、方向幕は「水天宮」の表示だった。ちなみに、21系統は「千住四丁目」が起点だが、方向幕の表示は「北千住」だった。

 都電の背景に写っているのは「水天宮」の境内だ。その門前には北側から「満寿鮨」「小松屋」「牛すじとおでんの志津」などが出店していた。さらし飴やあんこ飴を売る「小松屋」は大正期から続く水天宮の門前土産店だった。旧景を観察すると、ご参拝帰りに「志津」の暖簾をくぐり、おでんを肴に熱燗で一杯やりたい! そんな想いにかられてしまう。

 この写真の背後が水天宮前の交差点で、西側の角店が和菓子の「三原堂本店」、東側の角店が人形焼の「重盛永信堂」。ともに、「水天宮」の門前町である日本橋・人形町を代表する明治・大正期創業の老舗で、現在も盛業中なのが嬉しい。

約50年が経過した現在の写真。今年は江戸鎮座200年にあたる(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)
約50年が経過した現在の写真。今年は江戸鎮座200年にあたる(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)

 水天宮前界隈に路面電車が走ったのは1904年だった。東京市街鉄道が敷設した名門ルートである渋谷駅前~三宅坂~築地~水天宮~両国の一環として電車が運転された。1912年には隅田川に架橋された新大橋の完成により、新大橋線も開業して水天宮前の交差点は大いに賑った。

 戦後、水天宮前の交差点を東西に走る新大橋通りには9系統(渋谷駅前~浜町中ノ橋)と36系統(錦糸町駅前~築地)が運転され、ここを南北に走る人形町通りには13系統(新宿駅前~水天宮前)と21系統(千住四丁目~水天宮前)が水天宮前で折り返していた。営団地下鉄日比谷線(現・東京地下鉄)や都営地下鉄浅草線が未開通の時代、都電は水天宮詣での唯一の足として活用されていた。
 
「水天宮」は、江戸期に久留米藩主・有馬頼徳が芝・赤羽橋の久留米藩江戸上屋敷内に「久留米水天宮」を勧請した。時は1818年、これが江戸の「水天宮」の始めとなり、安産・子授けの神「おすいてぐさま」として人々から厚い信仰を集めた。

 明治5(1872)年に有馬家中屋敷があった日本橋・蛎殻町の現在地に移転された。「東京水天宮」として、多くの参拝者で賑う。安産の神様なので戌の日と五日に御縁日(ごえんにち)が開かれる。

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花電車の展示線として