反対運動の先頭に立ったのは佐々木さんの父、佐久川長正さんだった。その頃、昆布地区の住民の多くは、戦争で夫を亡くした女性が多かった。それまでも地域のリーダー役として頼りにされていた佐久川さんは、皆を率いてからだを張った闘いに挑んだ。
娘の佐々木さんはまだ10代だった。当初は運動の先頭に立つ父親とは距離を置いていたという。
「あの強大なアメリカ軍に勝てるとは思わなかったんです」
当時の米軍はやりたい放題だった。暴行も略奪も、そしてレイプ犯にさえ、警察は手出しできなかった。
「そんな相手に勝てるというのか。土地を奪われる悲しみはあったけれど、なにをしたって無駄かもしれないという、あきらめも抱えていたんです」
しかし、ある事件が彼女の意識を変えた。
66年12月30日の夜だった。約20人の米兵が闘争小屋を襲撃した。米兵たちは一斉に石を投げつけ、支援団体の旗をへし折った。米兵のむき出しの暴力に対し、農民たちは手も足も出なかった。
佐々木さんはその夜のことを鮮明に覚えている。
「お月様のきれいな夜でした。米兵は笑いながら投石してきました。私はそれを震えながら見ていたんです。そのとき、青白く光るお月様が、急に真っ赤に変わったんです。私の目が血走っていたのかもしれません。とにかく、真っ赤な血の色に染まったお月様が夜空にあった。怖くて悔しくて、わんわん泣きました」
そして決意した。
「闘おうと思いました。ただ単に土地を守るためではなく、ここで生きる人間としての尊厳を守るために」
立ち上がった佐々木さんに、抵抗運動の重要性を教えてくれたのは、伊江島で反基地闘争のリーダーを務めた阿波根昌鴻さん(故人)だった。
「米兵も同じ人間だと阿波根さんは言うのです。だからこそ、徹底して非暴力で、しかしあきらめない闘いをするのだと伝えてくれました」
座り込む。ただひたすら座り込む。そして絶対にあきらめない。そんな昆布の闘いは、阿波根さんの教えが根底にある。