29日は晶子忌。与謝野晶子(1878‐1942)は、奔放な情熱を込めた『みだれ髪』や、日露戦争従軍中の弟を思う長詩「君死にたまふことなかれ」で反響を呼んだ歌人として、よく知られています。一方で晶子は、11人の子に立派な教育を授けて育て上げ、一家の大黒柱の役割も果たした、スーパーグレートマザーでもありました。今回は旅で詠まれた歌碑も辿りながら、エネルギッシュな晶子の、晩年の温泉旅を振り返ります。

浜松市 方広寺〔奥山のしろがねの気が堂塔をあまねくとざす朝ぼらけかな〕
浜松市 方広寺〔奥山のしろがねの気が堂塔をあまねくとざす朝ぼらけかな〕

晶子は女性史における明星でもあった

歌人、詩人、小説家、古典の現代語訳者、教育者、評論家(思想家)、随筆家。そして妻、母親と、多彩な顔を晶子は持っていました。はじまりは、夫・与謝野鉄幹が1900(明治33)年に創刊した「明星」。晶子の『みだれ髪』の官能的な歌風が大きなトリガーとなり、同年代の浪漫主義運動の一大勢力となります。まだまだ、封建的な空気の遺る時代。晶子は、鉄幹の唱えた近代短歌革新理念に導かれ、人間性と自由恋愛を肯定した短歌を詠み、歌にも女性像にも、新しい時代の到来を示したのです。
『みだれ髪』から有名な三首をご紹介します。
・その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
・清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
・やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

薩摩川内市 市比野温泉郷〔水鳴れば谷かと思ひ遠き灯の見ゆれば原と思ふ湯場の夜〕 
薩摩川内市 市比野温泉郷〔水鳴れば谷かと思ひ遠き灯の見ゆれば原と思ふ湯場の夜〕 

晶子が一家の大黒柱に

しかし日露戦争以降、資本主義経済の発展とともに生じてきた深刻な社会問題に浪漫主義は応えることができず、自然主義が台頭すると、鉄幹は歌壇の圏外に押しやられます。一家の経済の中心となったのは晶子でした。夫妻の弟子であった石川啄木は、『啄木日記』の中で、活動の舞台となった詩歌結社・新詩社や与謝野家の生活費は、「晶子女史の筆一本で支えられている」と明かしています。晶子が新聞や雑誌の歌の選を行い、原稿を書き続けて支えたのです。晶子を「親身の姉のような気がする」と語った啄木はしかし、1912(明治45)年、渡欧した鉄幹に呼ばれて晶子がパリに旅立ったのちに、死去。
晶子が、啄木を追悼した歌です。
・しら玉は黒き袋にかくれたり吾が啄木はあらずこの世に

津軽海峡 立待岬〔啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと〕
津軽海峡 立待岬〔啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと〕

パリへ、そして全国の温泉旅へ

鉄幹の渡欧費用を用立てた晶子は、7人の子の母であったにも関わらず、自らの費用や日本に残す子供の世話の目処を立たせ、パリ行きを果たします。まさに晶子の一生は、不可能を可能にするエネルギーに満ちたものだと言えるでしょう。そしてこの旅は、鉄幹との関係やそれぞれの創作に、新鮮な風をもたらします。ヨーロッパの「個人主義」を体感した晶子は、帰国後も次々に子供に恵まれ、作歌活動や評論活動にますます邁進し、日本中を旅して歩くのです。
すでに大正期から夫妻の旅行は頻繁にありましたが、子供たちが大きくなり独立し始めた昭和に入ると、頻度が急増します。特に昭和6年は、旅行回数が最多回数で13回、北海道から九州までの各地を訪問しています。弟子や土地の人に招待される巡業的なこれらの旅行を、夫妻は「旅かせぎ」と称し、子供の学費や新詩社の資金調達にあてました。東京での夫妻の歌会はサロン化し、のちにも名を馳せた小説家や文壇人、学者が出入りしていました。地方でも同じように、同じ空間で文化的な雰囲気を味わいたいファンが、夫妻を待ち焦がれていたのでしょう。
63歳に亡くなる前年まで、生涯の間に百カ所を超える温泉を訪れた晶子。箱根や湯河原など、毎年のように訪れた地もあり、各地で歌碑も建てられています。講演会・懇親会場あるいは、作歌指導や揮毫の場となった湯宿では、仕事でも多少なりとも、心身が癒されたことでしょう。「旅行をすると歌が出来る」とも、子供たちに語ったそうです。複合効果のある旅を遂行できる健康に恵まれていたのでしょうが、のちに子息が語ったように「苦労の連続だったが、よく頑張った」ことと予測されます。

伊香保温泉 石段街 晶子の「伊香保の街」の詩が刻まれている
伊香保温泉 石段街 晶子の「伊香保の街」の詩が刻まれている

元祖旅するブロガー?女性の自立を示したグレートマザー

晶子は、「女性が経済的に独立できれば、男女平等は成し遂げられる」と一貫して唱えていました。60歳となった1938(昭和13)年には、ライフワーク『新新訳源氏物語』全6巻の刊行も始まります。
全国を旅して歩く合間にも、膨大な歌や、世間への評論を発表し続けた晶子。一連の活動を、移動サロンおよびコミュニティー活動と考えると、現代の旅するブロガーにも、通じるところがありそうです。この時代に子沢山の一家を養い、夫の活動の場も積極的に開拓した晶子は、まさにスーパー・グレートマザー。若い頃の奔放さのみならず、熟年後の実り多きライフスタイルのお手本としても、もう一度作品を読み直したいですね。
最後に、そんな晶子の余韻が漂う俳句をお届けします。
・音高く日傘ひらきぬ晶子の忌
〈渡辺千枝子〉
・大仏の若葉さやけし晶子の忌
〈野口里井〉
・晶子忌や針をつきさす赤い布
〈藤岡筑郎〉

【句の引用と参考文献】
『新日本大歳時記 カラー版 夏』(講談社)
『カラー図説 日本大歳時記 夏』(講談社)
平子恭子 (著) 『与謝野晶子 (年表作家読本) 』(河出書房新社)
与謝野 光 (著) 『晶子と寛の思い出 』(思文閣出版)
杉山由美子 (著) 『与謝野晶子 温泉と歌の旅』(小学館)

高山村山田温泉高井橋 〔鳳凰が山をお於(お)へるおくしなの山田の渓(たに)の秋に逢ふかな〕
高山村山田温泉高井橋 〔鳳凰が山をお於(お)へるおくしなの山田の渓(たに)の秋に逢ふかな〕