
変化もある一方で、図書館や幽霊、「ぼく」と「きみ」の恋の話など、これまでの小説に登場してきたモチーフがたくさんちりばめられている。土井さんはこんな印象を持った。
「どこか集大成のような感じがして、村上さんはこれが最後の長編作品のつもりで書いたのかもしれないですよね。5年くらいかけて長編を書かれる方だから。書く意欲はまだまだあると思いますけど、覚悟も決めているかもしれないなと思いました」
■「読んで胸がいっぱい」
本を読んだ人からは、今回も称賛の声が相次ぐ。一方で、次回の長編小説はどうなるのだろうという「不安」も。専門家は今回を、そして今後をどう分析しているのだろうか。
「村上さんが育て上げてきた作品の要素が入ることで、彼が積み上げてきたものが見事に結実した素晴らしい作品。読んで胸がいっぱいになりました」
こう話すのは、日本大学教授で村上春樹に関する研究もしている山崎眞紀子さんだ。例えばコーヒーショップの女性には『ノルウェイの森』(87年)の緑や直子も投影されていると言う。
「彼女が『そして額にかかった前髪を指で払った』(540ページ)は研究者やファンなら直子を思い浮かべますし、スレンダーな体形からは緑が転写されていると感じます。また、『国境の南、太陽の西』(92年)の雨が海に降り注いでいくラストシーンが『海に降りしきる雨の光景も含まれていた』(655ページ)に投影されていたり。彼が大事にしている作品のパーツパーツが注ぎ込まれていると思います」
改めて心を打たれたのは、村上春樹が74歳にして失わずに持ち続けている「想(おも)い」だと言う。
「村上作品は現実と非現実が曖昧(あいまい)でわかりにくいという批判を受けることもあります。確かに心で感じることには実体はないけれど、それは絶対に心の中にある。例えば10代で人を好きになったときの心の震え。そんなピュアな、心の奥に持っている大事なものを何歳になっても持ち続けて生きていくことの素晴らしさを、新作では見事に描いていると思います」
では、進化した部分は何か。文芸評論家の川村湊さんは「一番の特徴は『父親との葛藤』が消えたことだ」と話す。