人は、なぜと尋ねられ、明言できないことによって苦しみ、悲しみ、嘆き、ときにうめく。名状しがたい人生の出来事と交わる働きを著者は「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼ぶ。この言葉を著者は、次のように定義する。
「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」、あるいは「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」、さらに「不可思議さ、神秘、疑念をそのまま持ち続け、性急な事実や理由を求めないという態度」であると述べている。
本書の著者は、山本周五郎賞を受賞し第一線で活躍している作家であり、また、今も臨床の場を離れない精神科医でもある。この本は、著者でなくては書かれることはなかっただろう。「ネガティブ・ケイパビリティ」は、医療現場から生まれた視座ではなかった。文学から生まれ、精神医学に飛び火した。それは今、情報化によって交わりが非人格化しつつある現代において、ふたたび生命の息吹を取り戻す扉になろうとしている。
「ケイパビリティ」は通常、「能力」という訳語が当てられる。しかし、「能力」が意志を伴うものであるとすると、「ネガティブ・ケイパビリティ」には合致しない。著者もその懸念を最初に表明している。「能力」が、何らかの「答え」を導きだそうとする営みであるのに対して、「ネガティブ・ケイパビリティ」は「応え」あるいは「手応え」に導かれながら生きていこうとする態度を示す。それは「無為のちから」とでも訳した方がよいのかもしれない。
この言葉を最初に用いたのは十九世紀イギリスの詩人ジョン・キーツだった。ただ、キーツはこの言葉を、自らの詩作の鍵となる言葉としてもちいたのではない。書いたのは作品ではなく、兄弟への書簡で、それも一度だけだった。キーツは、シェイクスピアの偉大さは「ネガティブ・ケイパビリティ」にある、とその手紙に書く。シェイクスピアは、しばしば運命を描き出す。しかし、その運命が何であるかを判断しない。大きく揺れ動く世界の様相、人間の信条をそのままに浮かび上がらせる。それは書き手が語るのではなく、出来事に語らしめる働きだといってもよい。著者は、同質の公理が自身の携わっている精神医療の世界でも必須の要素であることを一度ならず語っている。