キーツが手紙に一度書いただけなら、この言葉は歴史に埋もれて行っただろう。それを何かに導かれるように発見した人物がいた。ウィルフレド・R・ビオンである。彼はこの一語を学問的な「術語」に高め、精神医療の世界に革命的といっても過言ではない動きをもたらした。ビオンの烈しい生涯を活写する著者の筆致はじつに力強く、予備知識のない者をも強く引き込む。
現代に生きる私たちは膨大な情報にふれているが、それに比例する叡知を身に着けているわけではない。むしろ、安易に事を判断し、意思を決定し、行動することも少なくない。眼前の出来事を凝視し、他者と対話しつつ、問いに深化させることがじつに困難になっている。「ネガティブ・ケイパビリティ」は、判断や解釈をせずに存在の、あるいは意味の深みへと沈潜していこうとする働きだといえるのかもしれない。それは本当の意味での「共感」や「寛容」へと変貌を遂げる。同時に、真の憐憫の種子でもある。
この世界が誕生して、未だ起こったことのない現象がある。それは止まることだ。万物は常にうごめいている。しかし、概念は止まっている。概念は実相を語らない。それはときに人間の関係を分断する危険すらはらんでいる。著者は、生けるものがいかにして、生ける他者を見出していくかという、じつに困難な、しかし欠くことのできない交わりの道程に、道を切り拓こうと試みる。キーツはもちろん、シェイクスピア、紫式部の生涯と言葉を燈火にしながら「答え」のない世界の歩き方を示そうとする。著者にとって「ネガティブ・ケイパビリティ」は、便利な概念ではなかった。この一語によって救われたのは、ほかならない著者自身だったのである。その出会いをめぐるドラマは読む者の心をつかむ。その切迫した経験が、この本にいのちを吹き込んでいる。
だが彼は、自分が考える道に読者を招こうとはしない。人は誰もが、究極的には誰も肩代わりしてくれないただ一つの道を歩き続けなくてはならないことを、熟知しているからだ。
今、生きることに何らかの困難を感じている人に、一読を薦めたい。言うまでもなく、生ける文学に飢えている人々の期待を裏切ることもけっしてない。さらに本書は、著者がその歴史にいかに連なることになったかを語る精神的自叙伝としても読むことができる。