「“河合奈保子のエスカレ―ションって、なんていい曲なんだろう”って感動しました。アイドルの世界には、曲から入ったんですよ」
アイドルの取材に撮影に動き回る男、ヤスさんへのインタビュー。その第3弾をお届けしたい。
「アイドルを撮ること」をテーマにした前回は、おかげさまで多大な反響をいただいた。今回は時計の針を大幅に戻し、ヤス少年がいかにアイドルの世界を発見したかについて会話を進めてゆく。「VHS対ベータ」「3倍」「ドレミファドン」「レッツゴーヤング」といった言葉(※あえて注釈は付けなかった。若者のみなさん、どうか自力で調べてください)にピンと来たあなたも、そうでないあなたも、ぜひお読みいただければ幸いだ。
■一直線に河合奈保子です。抜群に歌がうまくて、ルックスもタイプだった
――幼いころからアイドルに関心があったんですか?
どちらかというとアニメに夢中でした。「超時空要塞マクロス」とか「うる星やつら」とか「機甲創世記モスピーダ」とか「サイボーグ009」とか。
――では、いつごろからアイドル好きに?
それは修学旅行がきっかけだったんです。バスの中でカラオケ大会が始まるんですよ、そうするとクラスの女の子たちが「明星の歌本」(※集英社のアイドル雑誌の付録で、その時その時の新曲の歌詞が載っている)とかを見て、はやりの歌を歌う。そのなかに、河合奈保子さんの《エスカレーション》を歌った子がいたんです。それを聴いて、“なんていい曲なんだろう”って感動しました。アイドルの世界には、曲から入ったんです。
――同級生が歌うアイドルのカヴァーを聴いて、アイドル・ポップスに関心を持ったということですね。すごく珍しいケースだと思います。そうした場合、その同級生を好きになりそうなものですが。同じクラスなんだし、簡単に会えるし話せるし。
あはは、そこはヲタクというか“まっすぐに見れないの、案外内気な人”なんでしょうね。曲のインパクトは相当なもので一直線に河合奈保子です。当時はスマホなんてなかったから、自宅に帰るまで必死に“河合奈保子”“エスカレーション”って唱えて、本屋へ行って雑誌を買い漁りました。
――クラスメイトより、河合奈保子のほうに関心が行ってしまった。
そうです。いい歌だなと思って調べて、河合奈保子本人の歌唱(当時はもちろんテレビを通して)を聴いたらすごくうまいと思った。当時もアイドルはいっぱいいたけど抜群に歌がうまいぞ、と。なおかつルックスも僕のタイプだということで、一気にファンになったんです。1983年のことですね。その頃、「マクロス」も朝の6時に再放送をしていて(日曜の本放送はほとんど見られなかった)、母にビデオデッキを買ってもらって、最初は「マクロス」を録画するのが目的だったんですが、そのうち河合奈保子も録るようになって。河合奈保子をきっかけにいろんなアイドル番組も見るようになりました。
――最近、再評価の機運があるじゃないですか。往年の写真を集めたフォトブック『月刊平凡 GOLDEN BEST!! Vol.1 河合奈保子写真集 再会の夏』も売れ行き好調だそうです。
遅いですよっ! 80年代のアイドルってけっこう芸能界に残っていて、今も歌手やママさんタレントとして活動している方が多いんです。でも河合奈保子は長い間休業を続けていて、テレビにも一切出てこない。
――そこも根強い人気を保っている理由のひとつなんでしょうか。ところでビデオはVHS派でしたか、ベータ派でしたか?
ベータです。「ビデオコム」というオーディオヴィジュアル雑誌が季刊から隔月刊に変わった頃で、その新聞広告を見かけたんです。「ビデオコム」はハード的な記事も充実していて、僕にはさっぱりでしたけど、“どこそこの回路を切断したら、画質が向上した”なんていう特集があって面白かったので、購読するようになったんです。そこからAV(オーディオヴィジュアル)に目覚めてしまって。(宣伝するとHiViは1983年創刊です(笑))
――なぜベータに?
1983年はちょうどビデオの音質向上元年とも言える年で、先手を打ったのがソニー。SL-HF77というベータHiFi1機を出したんです。デザインもよかったし、ダイレクトドライブ機構だったので反応もキビキビしていた。さらに、コマ送りもできてと、マニア心をくすぐるには充分な仕様だったんです。価格も相当なものでしたけど(笑)。いま思えば、リモコンが別売りってすごいですよね(6000円)。
■1コマでもCMが入るのが嫌だったし、1コマでも本編が欠けるのは嫌だった
――僕は今まで一度もベータのテープを手にしたことがありません。VHSのテープとはどう違うんですか?
ビデオもカセットと同じように、磁気テープに信号を記録していきます。ただカセットと違って映像記録を行なう磁気ヘッドは回転していて、動いているテープに対し、斜めに信号を書き込んでいくことで、相対速度を上げて高い周波数の信号を書き込めるようにしているんです。だけど、音声のほうはカセットと同じくテープの端の部分に固定ヘッドで記録していきます。
ベータの場合、最初の録画モードはβIと言って、秒速4センチだったんです。たとえば「L500テープ」は、カセットの中に500フィート分のテープ(※1フィート=約30.48センチ)が入っているという意味で、それを秒4センチで記録していくと、60分の録画ができる。それに対してVHSはテープサイズがでかい上に、秒速3.3センチ(標準モード)。でも2時間録れる、と。当時はカセットテープの速度が秒4.76センチでしたから、まぁ音質はそれほどひどくはない、という感じで。
ただ時代の要請は長時間録画に向かっていて、録画モードが増えていくと当然テープスピードはどんどん落ちて行き……。標準で2時間録れるVHSに対し、ベータは標準で1時間。ということでソニー(ベータ)は「βⅡ」モードを開発して秒4センチを秒2センチにして、2時間録れるようにした。そうしたらVHSは「3倍モード」を開発して6時間録れるようになった。でもそうなると音はどんどん悪くなっていく。そうした時代に登場してきたのが高音質モデル、ベータHiFiやVHS HiFiだったんです。それで飛躍的に音が良くなって、CDと同じ20Hz~20kHzの記録を可能にしたんです。
――それで「マクロス」や河合奈保子を録っていたわけですね。
はい。「マクロス」は2時間テープ(L500)だと、CMをカットすれば5話入りますが、カットしないと4話しか入りません。βⅡは500フィートを毎秒2センチで動かしているので、計算すると125分。CMカットした本編が1話25分以内なら、なんとか5話入る計算なんです。当時はテープがとても高価(1本5000円)だったので、1本のテープになるべく多く録画するためには、生放送を見ながら、生編集(CMカット)するしか手立てはなかったんです。そのために、1話目を見ながらストップウォッチ片手に放送のタイムコード表を作って、2話以降はそれを元に生編集するわけです(笑)。「マクロス」で言えば、ちょっとうろ覚えですけど、6時00分00秒にオープニングが始まって、それが90秒。提供のアナウンスに続いて1分間のCMがあって、6時02分40秒に本編が始まります。Aパート、アイキャッチがあってCM60秒、アイキャッチ、Bパート、エンディング、CM、予告。ストップウォッチ片手にリアルタイム編集です(笑)。HF77の場合、再生一時停止→録画一時停止に持っていくと10コマぐらい戻るので、それを勘案して再生一時ポイントを決めます。1コマでもCMが入るのが嫌だったし、1コマでも本編が欠けるのは嫌だったので、そこは毎回真剣勝負でした。
――オープニングやエンディングは、一度録画すればいいのでは?
それが、オープニングは毎回同じですけど、エンディングは各話に携わったスタッフや声優さんの名前が出てくるので、毎回違うんですよ。だからエンディングは必ず録っておくんです。困ったのは「レイズナー」でしたね。毎回オープニングにアバン(映画・ドラマ・アニメなどでオープニング前へ挿入される部分。アバンタイトル)が入るんです。ただ、入るところは決まっていたので、そこだけ録ってましたけど。
――歌番組の場合は?
アニメより面倒でしたよ。河合奈保子の名前が新聞のラテ欄に書いてあっても、その番組のどこに出てくるかわからない。だから録画ボタンに手をかけて、ずっと待っているわけです(笑)。さらにCM中も気が抜けない。河合奈保子が出るCMが流れるかもしれないから。「アクアミー」(※ライオンのシャンプー)とか「からまん棒」(※日立の洗濯機)とか、いろんなCMに出ていたので。
――当時の歌番組では、松田聖子や小泉今日子も常連だったと思うのですが、それは一切カットして、河合奈保子だけを録画していたのですか?
最初はそうでしたね。とにかく、テープが高かったので(笑)。でも、他のアイドルも見ていくうちにいいなと思って、録り始めるようになったんです。2時間テープだと20~30曲ぐらい入るんですよ。日曜日にテープを新調したら「クイズ・ドレミファドン!」から始まって、「スーパーJOCKEY」に行って、「レッツゴーヤング」で締め。月曜は「ザ・トップテン」「夜のヒットスタジオ」で、火曜は「ドリフ大爆笑」……と延々と録りまくるわけです。ビデオデッキ、フル回転ですよ。そこに週15本ぐらいのアニメ録画も重なって……。
――少し後に出てきた、おニャン子クラブ(85年デビュー)はどうでしたか?
ハマれなかったですね。80年代後半で僕が好きだったのは島田奈美、畠田理恵、水谷麻里、松本典子、「メガゾーン23」の宮里久美、後藤恭子、太田貴子とか。90年代になると仕事が忙しくなってほとんどアイドルは見てないです。96年には河合奈保子も結婚・休業(97年)してしまったので、そこで第1次アイドル人生は終了。だから、初代TPDもほぼ知らない(笑)。
90年代の終わりにビデオ雑誌の編集部に入って、ソフト部門を担当するようになって、まずは監督とか女優さんの取材から、第2次アイドル人生が始まったんです。今は少なくなってきましたけど、当時は一つのソフトメーカーで、映画ソフトもアイドルソフトも扱っているところがあって(ポニーキャニオンとか、バップなど)、たまたま当時お付き合いのあった宣伝担当の方が両方を受け持っていることも多かったんです。そこで、「僕、実はアイドルも好きなんです」……という話をすると、今度○○○○のイベントしますとか、発表会見をしますから来てください、と呼ばれるようになったのがきっかけですね。当時はまだ「ファイブスターガール」とか「ミスマガジン」、「日テレジェニック」があったので、その取材をするようになってグラビアにも取材の幅を広げて行きました。2000年代後半になるとロコドルブームが起きて、ロコドルが映画に出るようになってきたんです。すると、主演女優の取材=ロコドルの取材という形になって、じゃあ今度ライヴにも来てください、という流れから、いまのライヴ取材にたどり着いた、と(笑)。Tパレに加入した当時のLinQとかも撮ってましたよ。
次回はいよいよラスト。「女優撮影のコツ」、「ガールズ演劇の奥深さ」、「ウェブサイト“ヤスのアイドルラブ”作成のきっかけ」等についてもうかがった。お楽しみに!
[次回2017年3/20(月)更新予定]