
元阪神の藤浪晋太郎と青柳晃洋が米球界挑戦を経て、出戻りの形でDeNA、ヤクルトに入団した。藤浪はメジャー移籍1年目の2023年に2球団で通算64試合登板も、この2シーズンは制球難を克服できず、3A止まり。青柳もメジャー登板ゼロといずれも微妙な成績ながら、勝手を知る日本球界復帰後、どこまでやれるか注目されている。そして、過去にもメジャーで微妙な成績を残したあと、日本で再び存在をアピールした選手が存在する。
【写真】関係者が明かす「いま最もメジャーに近い」投手がこちら
メジャー時代に覚えたナックルカーブを武器に、日本球界復帰後、速球王からクレバーな投手にモデルチェンジしたのが、五十嵐亮太だ。
ヤクルト時代に当時の日本最速タイ158キロをマークし、石井弘寿とともに“ロケットボーイズ”と呼ばれた五十嵐は、30歳になった2009年オフに海外FA権を行使、メッツと2年総額300万ドル(当時のレートで約2億7000万円)で契約した。
1年目は34試合、2年目は45試合に登板も、通算5勝2敗4ホールド、防御率5.74と結果を出せず、解雇された。その後、12月にパイレーツとマイナー契約を結んだがメジャー契約は勝ち取れず、翌12年はブルージェイズで登板2試合4失点、5月に移籍したヤンキースでも2試合4失点と打ち込まれ、防御率18.00と3年間で最低の成績に終わった。
米国での3年間は、五十嵐にとって苦闘の連続だったが、「アメリカではずっと野球のことばかり考えていた」ことが、大きな財産となる。
日本に戻り、ソフトバンクと3年契約を交わすと、1年目の13年は4月下旬に自ら2軍調整を志願し、1カ月間ナックルカーブの精度を高めた。これが吉と出て、安定感抜群のセットアッパーにモデルチェンジ。登板51試合で3勝12セーブ11ホールドを記録すると、翌14年も63試合で1勝2セーブ、リーグ最多の44ホールドの活躍で、チームの日本一に貢献した。
ソフトバンク在籍6年で通算106ホールドを挙げ、現役最後の2年間は古巣・ヤクルトでプレーした五十嵐は「アメリカに行かずにヤクルトのままだったら、40歳過ぎまで現役はできなかったはずです。アメリカで学んだナックルカーブがあったからこそ、その後も現役を続けることができた」(長谷川晶一著「海を渡るサムライたちの球跡」扶桑社)と振り返っている。