メジャーでは故障続きで不本意な結果に終わったが、帰国後、独立リーグを経て、古巣・阪神で40歳まで現役を務めたのが、現監督の藤川球児だ。
12年オフに海外FA権を行使し、カブスと2年総額950万ドル(約7億8000万円)プラス出来高で契約した藤川は、翌13年4月1日の開幕戦、パイレーツ戦の9回2死にメジャー初登板し、2球で初セーブを挙げた。
ところが、体格の良い外国人に対抗しようと、筋力の増強に努めたことが裏目に出て、右前腕部を2度痛め、6月にトミー・ジョン手術を受けた結果、残りシーズンを棒に振ってしまう。2年目も8月まで復帰が遅れ、登板15試合に終わると、FAになった。
そして、3年目のレンジャーズ時代も右足付け根を痛めて出遅れ、復帰後の5月も登板2試合目に本塁打を浴び、自由契約になった。
3年間で通算29試合、1勝1敗2セーブ1ホールド、防御率5.74。首脳陣とも十分な意思疎通ができず、野球に対する情熱を失った藤川は、他球団からの好条件のオファーも断って帰国。家族と過ごす時間を作るつもりだった。
だが、「藤川のストレートは、もう140キロにも届かない」の風評を見返すために、再びマウンドに立とうと決意(自著「火の玉ストレート プロフェッショナルの覚悟」日本実業出版社)。6月に四国IL・高知に入団し、同27日のオープン戦で最速150キロをマークした。
当初は「目的さえ達成すれば、ユニフォームを脱ぐつもりだった」が、阪神の新監督に就任した金本知憲と新コーチの矢野耀大から「一緒にやろう」と熱く口説かれ、16年から再び虎の一員に。
同年は4月3日のDeNA戦に先発して6回無失点でNPB復帰後初勝利。5月からは救援に回り、5勝3セーブ10ホールドを記録した。以後、17年から3年連続50試合以上に登板するなど、貴重なリリーフとしてチームを支えた。
もし、この古巣復帰後の5年間がなければ、就任1年目でV街道を突っ走る藤川監督の現在の姿も、また違ったものになっていたかもしれない。