シングルでリリースした「花・太陽・雨」(71年)、「自由に歩いて愛して」(71年)などせっかくの佳曲もセールス的には伸び悩んでしまった。結局、渡辺プロからの指示もあり、沢田研二は71年11月1日のシングル「君をのせて」でソロシンガーとしての道を歩み始めるのだった。
お茶の間にロックを届けた音楽的功績
沢田研二のソロシンガーへの転身は順調に運んだ。72年のセカンドシングル「許されない愛」はオリコン・ランキング4位の大ヒット。同年末にはザ・タイガース時代に社会的な批判のせいで果たせなかったNHK紅白歌合戦に出場し、翌年のシングル「危険なふたり」はオリコン1位を獲得。押しも押されもせぬトップスターの地位に返り咲いたのだ。

この時期の沢田研二には一つの音楽的功績がある。それはライブだけでなくテレビで歌う際にもバックバンドを帯同したこと。沢田研二はソロに転ずるにあたり渡辺プロに、PYGの演奏メンバー、つまり井上を中心とした井上堯之バンドをバックに付けることを条件にした。
当時、音楽番組では、各番組で決められたバンドやオーケストラが演奏を担当していたのだが、沢田研二はその慣習にならわず、自身のバンドで、理想のサウンドで歌えるよう求めたのだ。
これには苦楽を共にしたメンバー達への配慮もあったようだが、バンド出身である沢田研二の魅力を際立たせることに大きく寄与。当時まだまだメジャーではなかったロック音楽を全国のお茶の間に届けるという結果につながった。その後、沢田研二に憧れた西城秀樹ら後続の歌手たちの間でも自身のバックバンドをテレビに帯同する傾向が高まっていった。
余談だが、日本での人気を背景に、沢田研二は1975年にイギリス、フランスに進出している。これは"海外でレコードを出したら結果に関わらず箔が付く"というマネジメント側の思惑があったようだが、反響は想像を超え「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE(巴里にひとり)」がフランスのラジオチャートで4位を獲得するヒットに。
日本人として初めてフランスのゴールド・ディスクを受賞している。活動は継続しなかったが、今もフランスでは一定数、沢田研二のファンがいるという話だ。(本文中敬称略)
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