第4回日本歌謡大賞「危険なふたり」で大賞を受賞した沢田研二=1973年11月20日 日刊スポーツ提供
第4回日本歌謡大賞「危険なふたり」で大賞を受賞した沢田研二=1973年11月20日 日刊スポーツ提供
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 1960年代後半から80年代にかけ数々のヒット曲を放ち、音楽界、芸能界の頂点に立った沢田研二。「君だけに愛を」(68年/ザ・タイガース)、71年にソロデビューしたあとは「危険なふたり」(73年)、「時の過ぎゆくままに」(75年)、「勝手にしやがれ」(77年)、「TOKIO」(80年)……彼の楽曲は、セールス記録はもちろん、印象的なパフォーマンスと演出、一本筋を通した生きざまで、多くの人の記憶にも残っている。

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 日本の芸能史上、沢田研二とはいったいどんな存在だったのだろうか、そして、社会に何をもたらしたのだろうか。昭和を代表するスターの軌跡を綴った短期集中連載の第2回。

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スーパーグループでの挫折

 69年に入るとグループサウンズブームは退潮。ザ・タイガースはなおも人気を保ってはいたものの、沢田研二と対をなすボーカルだった加橋かつみが方向性の違いから脱退し、ドラムの瞳みのるも渡辺プロダクションへの不満を訴えるなど不協和音が生じ始めていた。

 沢田研二は最後までバンドの存続を模索していたが、一度すれ違ってしまった人の心はいかんともしがたく解散が決定。71年1月24日の日本武道館「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」をもって結成以来、約5年間の活動に幕を閉じた。

 その次に沢田研二が身を投じたのはPYG(ピッグ)。新たに流行していたニューロック(当時流行したイギリス、アメリカ発信のハードロック、ブルースロック等の総称)を志向し、グループサウンズで沢田研二に次ぐ人気を誇ったザ・テンプターズの萩原健一をはじめ、ザ・スパイダースの井上堯之、大野克夫らそうそうたるスター、実力派が合流した"スーパーグループ"だった。

 グループサウンズブームは潰えたものの、これだけのメンバーが揃えば……関係者は皆そう思ったに違いないが、蓋を開けてみると結果は散々だった。

 彼らを商業主義と見なしたロックファンからの反発で、各地のロック・フェスティバルで「帰れ」コールを浴び、ファンも沢田派と萩原派が二分してしまうなど問題が多発。

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