
原爆が広島と長崎に投下されてから80年。被爆2世でもある歌手・俳優の吉川晃司さん(59)が、「戦争は二度とあってはならない」とする、その思いとは。東京都写真美術館で開催されている「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」の会場で話を聞いた。
【写真】「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」の会場を歩く吉川晃司さん
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1965年、広島県府中町の生まれです。祖父母が営む「吉川旅館」は、川を挟んで原爆ドームの向かいに建っていました。父は広島で入市被爆していて、私は被爆2世です。
若い頃はそのことを語られることもなく意識せずに過ごしていました。
この10年、20年で父が、戦争当時のことをポツリポツリと話すようになり、その内容を耳にしたときは驚きでした。「原爆ドームの向かいに住んでいたわけ?」「いま平和公園になっている、あのへんは広島一の繁華街だったの?」と。
また、東日本大震災のとき、母が東北の町が津波に流されてしまった映像を見て、「(当時母親が住んでいた)東京の大空襲に似てる。同じ景色だ」という言葉に衝撃を受けました。戦争と災害はもちろん違うけれど、「多くの人が傷ついた」という意味では同じかもしれない。
被災地で感じた無力感
被災地にボランティアで参加したことがあるのですが、「お医者さんいらっしゃいませんか」「重機を動かせる人いませんか」という声に私にできることはなく。このちっぽけな己に何ができるかと無力感を持ちました。そんな時に出会った方から、「君には発信する力があるのだから、ここにいるよりもこの現況をもっと世の中に伝えてくれないか」と言われたりも。ただ自分として、まず己の目で見て、体験を経て図らねばという思いで。
エンターテイナーとして、「見得を切って」生きてきて、「そんなお前はこんなときに、黙るのか」。自分は発信する術も持っている。言葉にする。文字にする。詩に書いて歌う。できることもあるじゃないか。
若い頃は「言葉にしても、本意とは違うふうに伝わってしまうのでは」と二の足を踏むことも。でも、それでいいのか? 自分にできることがあればやろうと考えるようになりました。
東日本大震災直後は、原発についても、思うところを言葉にしました。当時は血の気が多かった分、短距離走者みたいな発言も多かったなといまは思います。
人は直接的な言葉には体が本能的に避けようとする。誰かが傷つくような言葉では伝えるのが難しいのだなということも学びました。