総長の仕事が多忙を極める中で、職員にテイクアウトを頼むことも。「学生時代はお金がなくカツが食べられませんでしたが、今は気兼ねなく口にできます」(写真/松永卓也)
総長の仕事が多忙を極める中で、職員にテイクアウトを頼むことも。「学生時代はお金がなくカツが食べられませんでしたが、今は気兼ねなく口にできます」(写真/松永卓也)

「感染が予想よりも早く収束したなら、判断を早まった責めを自分が負えばいい。でも、もし集団感染が早稲田から広がったら責任を取り切れない。一生悔いることになるでしょう。『なぜやめたのか』ではなく『なぜやったのか』と言われてはならない」

教え請いに来た慶應義塾長

 未曽有の事態に、政治経済学の数理モデルでいう「最大リグレット最小化」(Minimising Maximum Regret)、つまり「最大のダメージ(人命の犠牲)の最小化」が最優先だと直観したという。ただ、こう付け加えるのが田中流のユーモアだ。

「ラスベガスに行っても、『利潤の最大化』を目指せない。25ドルすったら『もうやめよう』となる。もともとの性分でしょうね(苦笑)」

 慶應(けいおう)義塾長の伊藤公平は、コロナ禍が2年目に入った21年5月のトップ就任後まもなく、田中に教えを請いに訪れた。早慶間の長い交流の歴史にない異例の出来事だった。

「金曜に塾長になり、翌週月曜の朝一番に訪ねた。面識もなく、一方的なお願いでした」

 伊藤は、固体物理や量子コンピュータが専門の物理学者。田中は、政治過程論・計量政治学が専門の政治学者。畑は違うが、ともに学部を出てすぐ修士課程から米国に学んだ。日米間の学術交流を盛んにしたいという志も同じだった。

「常に自分の先を行く、すごい『先行者』がいる。きわめつけは見事なコロナ対応。田中総長は先輩ですが盟友。早くから勝手にそう思っていました」

 まずは学生。次いで教職員。一人もとりこぼさず、数万人の命と健康を守る。その上で、教育と研究の歩みを止めない。田中の姿勢は一貫していた。ライバルだが盟友。二人は今も定期的にサシで会う機会を設けているという。伊藤は言う。

「単なる学塾に甘んじない、という目的意識がはっきりした慶應に対し、プラグマティック(実用的・現実的)で変幻自在な早稲田は時代の変化に強く、好対照です。明治十四年の政変(1881年)の後、早大の前身、東京専門学校を大隈重信が設立しましたが、慶應義塾の創設者・福澤諭吉との篤い親交がその舞台裏にはありました。大隈の『一身一家一国の為のみならず』は、福澤の『一身独立して一国独立す』に通じる。大隈と福澤、早稲田と慶應は日本の近代化、民主化をめざす同志なのです」

(文中敬称略)(文・大内悟史)

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