だが、これで終わらない。98年12月、三井鉱山など三井系企業が市などと出資し、市内に建設した「ネイブルランド」が閉園した。貯炭場だった11ヘクタールに、炭鉱を主題として遊園地や水族館などを備えていた。計画は赴任前に決まり、着任から1年弱の95年7月に開園した。
施設の名は「へそ」の英語に由来する。大牟田市が九州の中心にあるとの理由からだが、荒尾市に似た施設があり、そちらは集客力があった。「何で狭い地区に二つも」と思っていたら、初年度は約44万人の客があったが、翌年度から大きく減った。
一方、三井東圧化学は97年10月に三井石油化学工業と合併し、いまの三井化学ができた。大牟田の総務部長になる98年にネイブルランドの再生計画をつくったが、客の減少は止まらず、開園から3年余りで閉じた。その後処理を、出資企業の代表として担う。
炭鉱の閉山と出資していたテーマパークの閉園、二つの大逆風に見舞われた。実は、父も人員整理に伴う大争議の後、二つ目の不幸な出来事に遭遇した。63年11月9日の三川坑での炭塵(たんじん)爆発事故だ。
父は四山坑からつながっている坑道を進み、救助へいった。458人が亡くなり、多くが一酸化炭素中毒となる。街のあちらこちらに、家族が亡くなったことを示す「忌中」の紙が張り出される。父は被災者の家族の暮らしを守るため、また走り回る。ネイブルランドの閉園で、自分もそうだった。でも、「地域を守る」と苦労を重ねる父の姿から生まれた『源流』の流れの勢いは落ちない。
1951年10月、大牟田市の北の柳川市で生まれた。母は元中学校教諭で、両親と2歳上の兄の4人家族。3歳で大牟田市の社宅へ転居し、県立三池高校を出て大学受験で1浪。東京の大学にいた兄の下宿へいって予備校へ通い、71年4月に早稲田大学商学部へ進む。就職は第1次石油危機後の不況で厳しかったが、「ものづくり」へいきたくて三井東圧化学に決めた。
76年4月に入社。大阪府高石市でエチレンなど基礎化学品をつくっていた大阪工業所の業務部製品受渡1課へ配属される。入社6年目、アルジェリアのエチレンをつくるプロジェクトへ赴任した。