京料理の著名な老舗料亭10軒のご主人に、京都大学の学生に向けてお店の一番だしを披露してもらうイベントがある。この文章のタイトルはそのキャッチコピーである。2日間にわたるこの催しは、もう10年ほど続き、銀杏の色づく頃の大学の定番行事ともなっている。
 グルメブームとやらで情報ばかりが行きかっており、ネットを賑わせる料理店の評価や口コミブログもなにやら胡散臭い。そんな実態の薄い現代の食の中で、老舗料亭が屋号の誇りをかけて引いた日本文化の真髄とも言えるだしを実際に舌で経験する。これこそが、日本を牽引する将来が期待されている人材の教養というものだ、と感性の磨きを鼓舞する意味もあった。
 教養という響きに秘かにコンプレックスを抱いているらしい現代の京大生には、殺し文句といえる効果があった筈である。ネット募集への応募者は、たちまち2日間の定員200人をこえ、会場として借り切った学内のイタリアンレストランは、連日の大盛況となった。実は、私自身も名店のだしを飲み比べるなどという大それた経験はない。最も期待に震えたのは私であったかもしれない。
 昆布は京料理御用達の利(り)尻(しり)産の大ひね一等級で揃え、各店が自前の鰹節や鮪節を持ち込み、学生の前で解説しながら引いた。途中のステップで何度か試飲が入る。参加した学生は男子が大半を占めており、各店のブース前に散っている。昆布だしに鰹節が入った途端、それを飲んだ学生たちは「うおおっー」と一斉に地鳴りのような声を響かせた。柚子の皮の小片が入った椀を最後に口にした時にもまた、同様のどよめきが起こる。伝統に磨かれただしは想像を超える味わいなのである。会場の誰もが未体験の味であった。
 ざわめきが静まった後、各店のだしの飲み比べに移って、ふたたび驚いた。お店ごとに、味わいが全く違うのである。華やかな香りを前面に出しただし、うま味に力を込めただし、ひたすら淡く静寂を求めるだし。いずれもお店の得意な料理に関係している。ご主人たちとは旧知のおつきあいなので、失礼ながら、性格もよく存じているつもりだ。面白いことに、各店のだしの味わいは、だしを引くご主人たちの性格を反映しているのだ。華やかなだしにはご主人の華やかな性格が見える。静かなご主人は静寂なだしを引く。アグレッシブな味はどなたの技かと納得もできる。
 味わいの性格を最終的に決めているのは、ご主人たちの感性なのである。完成されただしの美味しさは、厳しく吟味された食材に、料理人の感性が色どりを添える。だしには奥深い神秘があると気づいた一瞬であった。これを詳しく知りたいとずっと思い続けていた。
 日本のだしの味わいは日本の料理の精神にも通じている。日本料理は引き算の料理と称されることが多い。日本料理のコースは長い道のりをただトボトボと歩き続けるような料理であるという海外のシェフの感想もある。大きなインパクトもない日本料理に対する率直な感想として面白い。対極にある海外の料理は、ソースや調味料を足すことで食材の欠点を消し、完成する。この間に料理人の独自の個性が際立ってくる。
 一方、日本料理は、だしから余計な味わいを可能な限り削り取り、さらに食材のもつ過剰な癖を削ることによって、食材本来の好ましい個性を活かす料理である。料理人の個性は表には出にくい。しかし、何もしないで食材任せにしているのではない。食材の吟味とそれを引き立てる洗練のだしによってはじめて可能となる熟練の技なのであると知った。
 日本料理は、インパクトや個性の強さを目指さないで、「障りのなさ」を大事にする精神が行き届いている。「障りのなさ」とは、欠点が見当たらないという意味であるが、細部にまで目を光らせて障りを処理しながら全体の調和をはかることによってはじめて完成する。そのためには、気の遠くなるような手間のかかった個々の食材の下処理が必要になる。全体としてみると引き算の味わいなどといわれる静謐な味わいに落ち着くのであるが、実は料理人の感性と卓越した技術の集合体なのである。
 日本料理の独自の精神とだしの味わいが育まれてきた背景には、アジアモンスーン地域という不安定な気候風土への恐れと諦観の混ざった自然への畏敬の観念、肉食の禁止と精進料理の歴史、油脂にも砂糖にもあまり依存しなかった料理の発展、昆布と鰹節の偶然の出会いによって洗練を深めただしのうま味など多くの要素が関係しているように思う。このような環境で磨かれてきた日本のだしには、数奇とも言える様々な歴史が潜むのである。このことに想像をめぐらせながら本物のだしを味わいたい。本書で伝えたかった私の思いである。