吉田修一さんを黒衣として受け入れた中村鴈治郎さん。吉田さんの丹念な取材が実現し、原作「国宝」(朝日新聞出版)につながった ©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
吉田修一さんを黒衣として受け入れた中村鴈治郎さん。吉田さんの丹念な取材が実現し、原作「国宝」(朝日新聞出版)につながった ©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
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 映画「国宝」は現役の歌舞伎役者たちがこぞって、その完成度・再現度の高さを絶賛している。原作『国宝』(朝日新聞出版)を手掛けた吉田修一さんは、四代目・中村鴈治郎さんのもとで3年にわたって黒衣となって楽屋裏、舞台袖に立ち取材を重ねたという。当時から伴走してきた朝日新聞出版書籍編集部編集委員の池谷真吾が、社会現象を生み出した『国宝』の“はじまり”を語った。(前後編の後編/前編はこちら

【写真】「国宝」原作者の吉田修一さん

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 2014年か2015年の正月3日、赤坂のニューオータニの中華料理屋で、吉田さんと、吉田さんがすでにタッグを組んだことのある李相日監督と私で新年会をした際に、李監督から歌舞伎を題材にした映画の構想があることを聞きました。その構想は李監督がインタビューでもお話しされている通りなんですが、こんな魅力的な話を聞いてしまっては編集者として動かないわけにはいきませんでしたし、吉田さんも思うところがあったのだと思います。

 吉田さんから歌舞伎を題材にした作品を書くと決められたのは2015年に入ってからです。ただ、当初はどのように取材すればいいのか、梨園という世界に通じる道筋がまったく立ちませんでした。

 ネットニュースでは、四代目・中村鴈治郎さんのもと、吉田さんが3年にわたって黒衣となって楽屋裏、舞台袖で梨園の世界に接してきたことが紹介されていますが、そこに辿りつくまで、本当に大きな厚い壁というか、強固な門に閉ざされていて、「歌舞伎役者」という存在に接することもできませんでした。

吉田さんと鴈治郎さんの出会いが全てだった

 歌舞伎役者を描くのに、歌舞伎役者の話を聞けないというのは、小説にとって致命的なことで、ここが本当に『国宝』という作品の「肝」だったと思います。映画化についても同様で、鴈治郎さんがいなければ、歌舞伎の指導、役者の日常のリアリティーを捉える以前に、この企画そのものが成立しなかったかもしれません。吉田さんと鴈治郎さんとの出会いが、すべての起点ではないかと思います。

『国宝』にとって鴈治郎さんは、それほど大きな存在なんですが、それを引き合わせてくれたのが、吉田さんが文学賞を受賞するたびにお祝いの席として使わせてもらっていた東京・六本木のバー「オプ」(現在は閉店)のママ、小田由美さんでした。ここは映画「悪人」初日の打ち上げでも使った店ですが、鴈治郎さんが智太郎時代から馴染みにされていたバーで、その縁から紹介していただいたわけです。

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