「死」に対する思考の対極性

無限列車の戦いで、煉獄と猗窩座は「死」に対する考えをぶつけ合った。老いることを「醜く、衰える」ことだと言い、鬼になれば、永遠に「武の高み」を目指すことができるのだと言う猗窩座の提案を、煉獄は迷うことなく拒否している。

老いることも 死ぬことも

人間という儚い生き物の美しさだ

老いるからこそ 死ぬからこそ

堪らなく愛おしく 尊いのだ

煉獄杏寿郎/8巻・第63話「猗窩座」)

猗窩座は煉獄の心の清廉さを認めながらも、その言葉には一切共感しない。猗窩座にとっては、愛する人の死は「認められないもの」だからだ。強さを追求し続けている間だけは、彼の愛情にも献身にも、“終わり”はこない。強くならなくては、大切な人が死んでしまうという想念だけが、猗窩座をいつまでも突き動かしていた。これこそが彼が鬼になった要因である。

大切な人の死と彼らが遺した言葉が、煉獄と猗窩座の運命を大きく変えていく。煉獄の母の遺言は死闘の際にも煉獄の助力となり続けていた。亡き母への語りかけが、煉獄の心を明るく照らし、「正しい道」へと導いていたことは明らかである。では、猗窩座はどうだったのか? 本書『鬼滅月想譚』では、猗窩座に残された「別れの言葉」と、その言葉が猗窩座のその後の人生に与えた影響について、解説している。

■鬼の悲しさ、猗窩座の悲嘆

無限城の戦いにおける猗窩座の言葉はどれも、自分がこれまでに失ってきた過去の悲しみと、今なお抱え続けている虚しさを語るものである。それに対して、かつて、煉獄の口から紡がれたのは、通り過ぎてきた悲しみを乗り越えた果てにある、今この瞬間に持ち続けていかねばならない「強き者」として決意であった。煉獄が見つめた未来は、自分が救った誰かが生を全うすることにあり、猗窩座が見つめた未来は、叶わぬことと知りながら、大切な人たちの生を取り戻してやることだった。

少なくとも猗窩座に必要だったのは、「鬼として生きること」=「死なないこと」ではなかったのではないか。煉獄・炭治郎・義勇らの「鬼殺隊らしい生き様/死に様」「人間としての強さと弱さ」が、猗窩座に「か弱き人たちが生きていくこと」のかけがえのない意味を教えていく。

生きることの尊さを伝える『鬼滅の刃』の物語は、死を否定しているわけではない。同時に、あらゆる者たち死の悲しみに心を寄せていく。煉獄による「儚い生の美しさ」を伝えたあの言葉の数々は、その遺志を繋ぐ炭治郎たちを通じて人にも鬼にも届いていく。その様子を劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第1章・猗窩座再来」で感じ取ることができるだろう。

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