
自分のことを客観的に見ていなかったことへの驚きもさることながら、夫の一言があんなに響くとは、思っていたよりも夫のことが好きだったのかなあと思ってしまいます。
ここで少し、夫とのなれそめについてお話しさせてください。
夫とはお互いの祖母が一緒の「いとこ」の関係にあたります。
夫の母は若いときに結核にかかったため、病気が移っては大変だからということで、母親と離れて育てられました。育てたのが、夫と私の共通の祖母でした。
夫の父親は満鉄(南満州鉄道)で偉くなった人だったので、お金に不自由したことはありませんでした。夫はあの時代には珍しく大学にまで進学させてもらい、そのときの仕送りの額はなんと大卒初任給の5倍くらいだったのだとか。何のお金の苦労もなく好きな本を買いあさったり、毎朝コーヒーを飲みに下宿近くの喫茶店に出入りしたりしていたそうです。
ところが戦局の悪化とともにそんな生活もしていられなくなります。
私より1歳年下の夫は、大学卒業が繰り上げられ、召集令状が来てさあこれから戦地に向かう、というところで終戦を迎えました。
日本が大混乱の時代です。法科出身でゆくゆくは弁護士になりたいと考えていたそうですが、学業は半端になるわ、司法試験は実施されないわで、当初の計画は頓挫。
それどころか郷里では働き口がなく、見かねた私の父が福島に呼び寄せてわが家に住まわせながら、就職先を探すことになりました。
今ではちょっと考えられないですが、昔は親戚同士の結びつきが強く、親戚の誰かの家の世話になるということがよくあったんです。
だから私もあまりなじみのない「いとこ」と暮らすことに何の疑問も抵抗もありませんでした。お互い「お年頃」ではありましたが、異性として意識したこともありません。
もっとも夫のほうはもしかしたら気があったのかもしれません。私が日勤のとき、電話局まで迎えに来ることがよくありました。同僚から「ほら、また来てるよ」なんてからかわれたものです。
そのころの私は母がすでに他界していたので主婦の役割を果たし、家族から「姉ちゃん」と呼ばれて何くれとなく頼りにされ、なおかつ電話局で働いてお給料まで持ってきていました。甘やかされて育てられた夫にしてみたら、頼りがいのある存在に映ったのではないでしょうか。
ちなみに夫も私のことを「姉ちゃん」と呼んでいました。
せっかく父が呼び寄せたのに、福島でも夫の就職先は決まりませんでした。高学歴がかえって仇になったこともあったようです。
父の知り合いが銀行を紹介してくれたのですが、「頭取だって大学を出ていないのに、大卒の新人行員なんてどう扱っていいかわからない」と言われたそうです。