買うのはほとんど男、売るのはほとんど女、そういう性産業を巡っては、女どうしの間でこそ分断することがある。
近年、性産業で働いた女性たちのなかから、「あれは性暴力だった」という声があがりはじめている。「お金をもらう仕事だ」「立派なサービス業だ」という意識で働いていたとしても、現実はあまりに苛烈だ。あからさまに若さと容姿で値段がつけられる仕事で求められるのは技術ではなく、若さと従順さであることは、買春している男性たちが一番知っている残酷さだろう。そしてそんな残酷を言葉にしようにも、追いつかないほどのスピードで加速し発展する性産業の大きさに、私はひるみ続けている。いったい何が正解なのか?
それでも私は思うのだ。そこは本当に、宮川裁判官が言うように、「お客がいるのだから社会的需要があるのだ」と簡単に肯定できる世界なのだろうか。なかには良心的な業者もあるのだろうが、「トラブルは業者が予防する」とは、ずいぶんと上から目線の他人事に感じる。もし業者が女性を守ってくれるのならば、たとえばコロナ禍、ソープランドの店内で殺された女性のことをどう考えればよいのだろう。つい先月も、デリヘルの客が自宅で女性をハンマーで殴ったとして殺人未遂容疑で逮捕された事件があったが、それはどう「予防」できたというのだろう。
女の性を巡り、女性たちは悲しいくらいに分断させられ、そして正解は遠のいていくように見える。そして「買う男」の存在はいつも、どんな時も、なぜか問われない。とはいえ、ここまで性産業を巡り、ここまで対立した意見が最高裁判決の個別意見として書き込まれたことは、きっとこれから何か別の次元で現実が動いていくきっかけになるかもしれない。
とりあえず、現状は「保留」された。原告の女性には過酷な結論だったとは思うが、現状が「保留」されたことに、私はいったんほっとしたのかもしれない。「差別の保留」という意味ではない。そもそも性風俗そのものが何らかの差別を前提にしなければ成立しないのではないか、女性にとって大変なリスクがあるのではないか、という議論はまだ充分にされていない。性産業はあまりにも巨大であり、そこに関わる女性たちはあまりに多い。考えねばならぬことは目の前に山積し続けている。
性産業に向き合い、考えることは、私たちがどういう社会を生きたいのか、を考えることでもあるのだ。
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