「あの斜めの水の光景は忘れない」
生放送の後、夜の生放送までの時間にオナガワエフエムのスタッフの一人、通称ブティちゃん(津波でお母さんのブティックが流されたことでブティックさんとよばれているの)が高台にある旧女川町立病院に連れて行ってくれた。ブティちゃんは震災の時ここに避難していて一瞬の判断で屋上に逃げたことで一命をとりとめたそうだ。病院の玄関前の丸い柱には、ここまで津波が来たという印が付いていた。「トーコさん、水って少しずつ増えてくるわけじゃないの。斜めになるんだよ。山に向かってかけ上がってくるの。あの斜めの水の光景は忘れない」と静かに語るブティちゃん。そうだ。やっぱりこの街はあの壊滅的な被害から立ち上がった街なんだ、と胸が詰まる。全てが津波で流されて亡くなった方もたくさんいて、一体どうやって気持ちを維持してここまで生きてこられたんだろう。私なら乗り越えられただろうか。「たぶん街の人たちが全員同じように被災して差がなかったことも大きかったのかも。みんなで同じ目標に向かっていけたからじゃないかな」とブティちゃんは言った。
夜の生放送はナポリタンのおいしい海沿いのバーを借りて行われた。街の人たちがたくさん駆けつけてくれた。急きょ私が司会をやることになり、まちのラジオvs.女川さいがいFM3本勝負! と題してお互いの街のすてきなところをクイズ形式で自慢しあった。災害から立ち上がった女川の民から、これから立ち上がらねばならない能登の民へ、見えない何かがリレーされていく。大きくて温かくてそして楽しい、胸がいっぱいになる時間だった。
さて、「まちのラジオ」は6月末の開局に向けて必死に準備している。期間限定1年間の予定だ。誰もプロはいない。自分たちのラジオがいよいよ始まる。走りだしたらきっと必要なことが見えてくるはすだ。うまくいかないこともたくさんあると思うけれど、きっとみんなで力を合わせて壁を乗り越えていけると信じている。
翌日早起きした私は、快晴の空を晴れ晴れとした気持ちで神戸に飛んで、無事神戸女学院での講演を終えて東京に帰り着いたことをご報告しておきます。
野生のトーコ旅はまだまだ続く。
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