NHKでたたきこまれた災害報道の大切さ
報道機関に属していながら災害の現場に駆けつけられないというのは本当につらい。しかも入局以来NHKで災害報道の大切さをたたき込まれ、大阪放送局時代には阪神・淡路大震災を現地で経験している私にとって、東日本大震災の現場に行けないことは本当につらかった。しかし、目の前の小さな生まれたばかりの命を守ることに必死だったあの日々。育休を終えて仕事復帰してから、3月11日は毎年特番を担当してきたけれど、コロナ禍では現地へ取材に行くこともままならず、ずっと私の心に大きな塊として存在し続けていたのだ。いつか行きたい。まずは行って、私の中の時計を動かし始めなきゃ。そんな思いをずっと抱き続けていた。
と、そのチャンスが突然やってきた。これはオンラインとか言っている場合じゃない、行くしかないではないか。と、私が思うことをトトロ大嶋。はいつも知っている(笑)。というわけで、急いで神戸行き新幹線をキャンセルして女川までの切符を取り直し、翌日の仙台空港から神戸空港へ飛ぶチケットを予約して、いざ女川へと出発、お昼前にはあっけなく到着した。
駅に降り立ち地図アプリでオナガワエフエムを検索すると、駅の隣の広い空き地を指示する。「え、まさかあそこじゃないよね?」と思うような小さなコンテナハウスだ。コロコロを引っ張って砂利の敷かれた広大な空き地にポツンとあるコンテナハウスに行きかけて、はて、女川の街を見ずしてコンテナハウスに行けるものかと思い直し、「トトロ、ちょっと遅れるね」とメッセージを送って、夏のような太陽が照りつける女川の街へと引き返した。
14年前、15メートルもの高さの津波に襲われた女川の街。建物の8割が被災した街。
駅から海に向かって一本の道が延びていて、その両側にはカフェや飲食店、地元の海産物を売る店など真新しい街が広がっていた。空が広かった。一見すると震災のことはまったく見えてこない。しかし港まで歩いて行ってみると、そこには津波で流され横倒しになった旧女川交番がそのまま震災遺構としてあった。この穏やかな海が……と複雑な思いを胸に1時間ほど一人で街を歩き、地元産のつぶ貝の焼き串を手に、私は生放送に乱入すべく「まちのラジオ」のメンバーによる放送がすでに始まっているオナガワエフエムのコンテナに向かった。