1970年代。中央が鴨居玲。右が日動画廊副社長の長谷川智恵子。長谷川智恵子には、『鴨居玲 死を見つめる男』(講談社)の著作があり、コラムでも参考にさせていただいた(写真・日動画廊)
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 鴨居玲(かもいれい)のことは、すでに、上村松園の「静(しずか)」という日本画にまつわる思い出を書いた回で、ちらりと書いている

 今から40年前(もうそんな時間がたったのか!)、就職浪人をしていた私が、早稲田で何の気はなしにとったのが「美学」という変わった名前の講義だった。その「美学」を教えていた教授の坂崎乙郎は、「偽物を見抜け!」と言いながらクリムトをこき下ろし、エゴン・シーレこそが「本物だ」と、喝破する孤高の教授だった。

 鴨居玲が1985年9月に自殺した後を追うようにして、その坂崎先生が自死していたことを知るのは、不覚ながら、「静」について調べていた2025年のことである。

 今回は、この二人について書いてみよう。

死後その評価が年々高まる画家

 売れなかった時代から、鴨居玲をサポートしていたのは、銀座の日動画廊だ。もともと戦前に、日本動産火災保険本社ビルに間借りして開業した画商だったが、二代目夫婦の長谷川徳七、智恵子のふたりが、自分たちの世代の画家として鴨居を支援した。

 1944年生まれの智恵子が語る。

「鴨居さんは、ずーっと売れていなくて、たまたま司馬遼太郎さんの紹介で、初めての個展をひらくことになったのが、40をすぎてのことです」

「鴨居さんは、死後その評価が年々高まっているめずらしい作家です。この間の展覧会ではついに一億を超えた売買が成立した作品がでました」

 鴨居はもみあげが特徴の彫りの深い顔で女性によくもてた。パーティーには、ベルサーチの派手なジャケットをきこなし、ローションを脇の下につけて、ほのかな香りを漂わせていた。智恵子も日本人離れした長身の才媛で、フランス語も得意とし、海外でも、鴨居をよく売り込んだ。二人が並ぶと、まるで映画の一シーンのようによく映えた。

 鴨居には自画像が多い。後期の様々な意匠の作品にも、自分が登場する。50代でもみあげは白かったが、「あれは、むしろ白く染めて威厳をだしていたのよ」(智恵子)。

 そんなナルシストの鴨居は、「美しく死ぬ」ことに対する強迫観念があり、智恵子によれば、自殺未遂をくりかえしたのだという。

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