
あびるほどお酒を飲み、睡眠薬を飲む。ドアに目張りをしてガス栓を抜く、朦朧としながら、感謝の気持ちを原稿に書きなぐる。外出先から戻ったパートナーが、あわてて病院に運びこんで、胃洗浄をして正気に戻す、ということを繰り返していた。
そんな鴨居と、同じ歳の坂崎は、よく一緒にのみ、そうすると二人で、「美しい死に方」について議論をしていたのだという。
そんな智恵子の話を聞きながら、しかしと、私は思ったのだった。
坂崎先生は、「死ぬ」ことを美しいと思うような人ではなかった。
授業の課題で、学生たちに、わざわざ坂本繁二郎の「水より上る馬」を東京国立近代美術館まで見にいかせ、それを試験にしたような人だ。「水より上る馬」は、生命の躍動をまさにとらえた絵で、見ているうちに心がわきたってくるような絵だ。
なぜ、先生は、鴨居と「死に方」まで議論し、あげくのはてにその後を追うことまでしたのか?
実は、今回、先生が鴨居玲に宛てた手紙を、日動画廊が遺品の中から探し出してくれた。死の前年の1984年9月11日に書かれた手紙だ。
鴨居玲と長く一緒に暮らした「とみさん」こと富山栄美子の厚意で、鴨居玲の遺品のほとんどは、茨城県にある笠間日動美術館に寄贈されている。その膨大な資料のなかから、その手紙をスタッフがみつけだしてくれたのだ。
どうか七十までは頑張ってください
それは、原稿用紙三枚に、万年筆の流麗な文字で綴られていた。
先生は、鴨居の自宅に招かれ一泊して、鴨居が売れる前の30代の作品を見せられている。その感想をつづりながら、むしろ「七十までは頑張って下さい」と励ましていたのだ。
〈さて、鴨居さんの三十代の作品ですが、最初の日は、幻想味と云うか、イメージと云うか、その迫力に共鳴しました〉